読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』で境界のない世界像に触れる

スピノザ二十七、八歳、後の『エチカ』に直結する論文。スピノザにとって神以外に存在はない。この「神即自然」の認識は例えば次の如く語られる。

神は内在的原因であって超越的原因でない。なぜなら神は一切を自己自身のうちに生じ自己の外に生じないからである。神の外には何ものも存在しないのであるから。(第三章「神の内在的作用について」p86)

 この世界に外部はない。内部と外部を分ける境界があれば境界を含むより大きな場が必然的に想像されるから、それは無限の実体ではない。ここまでについては一般的な考え方でもついていける。しかし無限の実体の観念から演繹した結果として出て来るスピノザの世界像は、そう容易には理解できないものである。

部分とか全体とかは真の有乃至実的有ではなくて単に理性の有に過ぎない。従って自然の中には全体も部分も存しない。(第二章「神とは何か」p71)

 畠中尚志の訳注によると「理性の有」というのは、「思惟の様態に過ぎぬ物、思惟する精神の外に実在しない物」をいうスコラ学派の用語ということらしい。

自然に於ける部分に関しては、分割なるものは、既に述べたように、決して実体自身の中には起こらず、常にただ実体の様態の中にのみ起ると我々は主張する。(中略)分割乃至受動は常に様態の中にのみ起る。例えば人間が消滅する或は亡ぼされると我々が言う時、それは有限な一合性物であり実体の一様態である限りに於いての人間をのみ眼中に置いているのであって、人間の依存する実体を眼中に置いているのではない。その上、我々が既に述べもし又これから後でも繰り返すだろうように、神の外には何物も存しないのであり、又神は内在的原因なのである。ところで能動者と受動者が異なる様な場合は受動は明白な不完全性を意味する。その場合受動者は外部から受動をもたらしたものに必然的に依存せねばならぬからである。かかることは完全者たる神に於いては生ずることが出来ない。(第二章「神とは何か」p73)

 スピノザは実体と実体の様態を厳密に区別している。そこが理解の分かれ目となるだろう。神は実体でわれわれ人間は実体の様態である。そこはきちんと分けて考えなければならない。様態に「理性の有」としての全体や部分を見ているだけで、実体には部分も全体もない。ここまでは仮に理解し納得できたと仮定してみることも可能だ。しかし、次の精神についての認識の前には足を止める。スピノザは無機物も有機物も有情も非情もいっさい区別なく精神を持つという。精神の有無では物のあいだに違いは認められない。この認識をベースに語られるのがスピノザの心身合一なのであるが、にわかには受け入れがたい。しかし私はスピノザ好きなので単に受け入れてしまいたいという誘惑にも駆られる。

精神は思惟するものの中にある観念であって、自然の中にある事物の現実的存在から発生する、と。この帰結として、事物の持続と変化に応じて精神の持続と変化も生ぜねばならぬということになる。尚、その際我々の認めたところに依れば、精神は身体と―自らがその観念であるところの身体と―合一することも出来るし、又神と―自らが存在するにも理解されるにも欠くべからざるものであるところの神と―合一することも出来る。(第二十三章「精神の不滅について」p194)

 

精神の本質はただ次の点にのみ、即ち、自然の中に現実に存在する或る客体の本質から思惟の属性の中に発生する観念(即ち想念的本質)の存在という点にのみある。私は「現実に存在する或る客体の」云々とのみ言ってそれ以上の特殊な条件を付けない。これに依って、この中に延長の様態だけでなく〔自余の〕すべての無限なる属性の様態をも含めんがためである。これらのものも亦延長の場合に於けると同様に精神を有するのだから。(第二付録「人間の精神について」p215)

 

徹底的に脱色されて語られたところの神秘。でも、展開していくとはなはだ危険な話になりうるし、どんなSFやホラーよりも怖いともいえる。逆に境界がないのだから何ひとつ怖くも危険でもない話と捉えることも出来る。精神のありようが身体の変容とともに変わっただけのこと、物体の運動と静止の割合が変わってみただけのこと、と言ってはみても、すべての物に精神があるという考えには、やはり慣れはしない。

第二部「人間 並びに人間に属するものについて」の序言におけるスピノザの注記。

四、完全なる思惟は、現実的に存在するありとあらゆる物について―実体についても様態についても例外なく―認識、観念、思惟様態を有せねばならぬ。
五、我々は「現実に存在する」という。何故なら、ここで我々は、あらゆる物の本性をその個別的存在とかかわりなくその本質との連結に於て完全に知るところの認識、観念等について語っているのではなく、その都度都度存在して来る個々物の認識、観念等ついてのみ語っているのだからである。
六、現実的に存在する各の個物についてのこの認識、観念等は、我々の見解に依れば、その個物の精神なのである。
七、現実に存在するありとあらゆる個物は運動と静止とに依ってそうしたものになる。そしてこのことは我々が物体と名づける実体的延長のすべての様態についてあてはまる。
八、これらのものに見られる相違性はただ運動と静止の異なれる割合からのみ生じ、それに依ってこれこのようであってあのようでなく、又これこれであってあれでないということになる。
九、運動と静止のこうした割合から我々のこの身体の現実的存在も出てくるのである。そしてこの身体についても(他のすべての事物についてと同じく)思惟するものの中に認識や観念が存在せねばならぬ。これが我々の観念、認識、ひいては我々の精神なのである。

十、然し我々のこの身体は、まだ胎児だった時には運動と静止の異なれる割合にあったし、又後で我々が死ぬ時にはもっと別な割合にあるであろう。しかしそれにもかかわらずかつて〔生前〕も又後で〔死後〕も、現在と同様、思惟するものの中に我々の身体の観念や認識があったし又あるであろう。しかし決して同一〔観念や認識〕ではない。何故なら身体は現在運動と静止とに関して異なれる割合にあるのであるから。

観念、認識、精神というものをよりスピノザの体系のなかで理解できるようになれば、もっと腑に落ちるようになるだろうか。現代の研究者の力も借りてもうすこし進んでみたい。

 

もし、スピノザが現在を生きているとしたら、どんな論文を書くのだろうか? 現在までの科学的知見を取り込んで、どのように論をブラッシュアップさせるのか? どのような神即自然が語られるのか? ものすごい興味深く思われる。

※引用文は実際は旧字旧仮名。太字は傍点。

 

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スピノザ
1632 - 1677
畠中尚志
1899 - 1980