読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

新井紀子・東中竜一郎 編『人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」第三次AIブームの到達点と限界』(東京大学出版会 2018)

本書はキャッチ―なタイトルと親しみやすいカヴァーのイラストで一般向けの書籍の体裁をとっているけれども、実情としては人工知能系の国家予算供与プロジェクトの結果報告書といったもので、システム業界以外の読者層にたいして有益な情報は全篇通してそれほどはない。

一般的には、「はじめに」、「序章」、「終章」、「おわりに」の状況解説だけで十分かと思われる。逆にシステム業界系の人物にとっては処理ケースで有効なパターン検証があるので、その部分の成果を頂いて、自身の仕事の参考にするということができる。ただし、有効と思われる処理に使用されている技術の個別解説は一切ないので、利用する場合は本書を学習の起点として独自に深めていく必要がある。

 

「ロボットは東大に入れるか」という現状でのAIの能力検証のプロジェクトの方針に対しては、非東大系社会人としての意見をいわせていただくとすると、成果主義の観点からみれば、出身校のタグ付けはほとんど意味はない。各自得意な領域で成果物を出していただければ大学などでていなくても問題ない。

 

ということで、人工知能がそれなりの能力を持つならば、東大に入るかどうかなど問題にせずに、入ってからの学知に対する貢献や理解度を観察した方がいいと思うのだが、そのレベルでの研究を行わないのは、編者たちは、そこまでの段階には人工知能のレベルは達していないと言いたいのだろう。多額の税金使って言えることはそんなもんかと、ちょっと肩を落とす。ただ、新井紀子の書いた「はじめに」にもあるようにAIに対する過剰な期待を削ぐためにはきわめて有効なプロジェクトであったかもしれない。
一読者として私が受け止めた本書の結論は

特化型AIを中心とした、人間とAIが協働する社会を目指すことは妥当(終章「人とAIの協働で生産性は向上するのか?」p273)

というところで、かつ補強するならば、特化型AIだって場合によっては何の成果も期待もできないということだと思う。東ロボプロジェクトは、特殊日本的知力判断テスト適合システムという特化型AIの構築にも失敗ししまっているプロジェクトで、本来は、もっと控えめに発信すべき研究成果であると思う。AIにも劣る低学力の児童の読解力の低下傾向のデータを現行の教育制度に対して訴えて、何ごとかをなしたと思っている場合ではないだろう。AIに対する過剰期待に冷水を浴びせるという所期の目標は達したかもしれませんが、自己満足の域をあまり出ていないような感じはしませんでしょうか? もう少し上手に、というか勝負して税金は使って欲しいなあ。


目次:

はじめに

序章  東ロボプロジェクトは何を目指したか
 1 東大の入試問題を解けることの意味
 2 東ロボプロジェクトの歩み

第1章 各教科の取り組み 英語――言語処理技術の適用と深層学習の利用
 1.1 学術的な位置づけ
 1.2 アクセント・発音問題
 1.3 文法・語法・語彙問題
 1.4 会話文完成問題
 1.5 不要文除去問題
 1.6 意見要旨把握問題
 1.7 未知語句語義推定問題
 1.8 内容一致問題
 1.9 段落タイトル付与問題
 1.10 リスニング
 1.11 イラスト問題
 1.12 図表の読み取り
 1.13 まとめと今後の問題
 コラム ヒューリスティクス

第2章 各教科の取り組み 国語――テキストの表層的情報に基づくアプローチ
 2.1 センター試験「国語」の構成
 2.2 学術的な位置づけ
 2.3 現代文・漢字問題とその解法
 2.4 現代文・評論読解問題とその解法
 2.5 現代文・語句問題とその解法
 2.6 現代文・小説読解問題とその解法
 2.7 古文・文法問題とその解法
 2.8 古文・内容理解問題とその解法

第3章 各教科の取り組み 世界史――テキスト情報源への情報アクセス手法に基づくアプローチ
 3.1 学術的な位置づけ
 3.2 大学入試センター試験
 3.3 2次試験
 3.4 今後の課題

第4章 各教科の取り組み 数学――深い言語処理と高速な計算代数の接合
 4.1 学術的な位置づけ,模試の結果
 4.2 2次試験・記述式問題の解法とエラーの分析
 4.3 今後の課題
 コラム 真理条件意味論

第5章 各教科の取り組み 物理――シミュレータと図形描画を利用した力学問題の自動解答
 5.1 学術的な位置づけ,模試の結果
 5.2 力学問題をシミュレータで解く自動解答器
 5.3 図形を含む静的つり合い問題の求解
 5.4 まとめと今後の課題

終章  人とAIの協働で生産性は向上するか?
 1 リーディングスキルテスト
 2 機械翻訳と人との協働において生じるエラー分析
 3 東ロボと機械読解

おわりに

 

www.utp.or.jp

新井紀子
1962 -
東中竜一郎
1976 -

小川環樹・木田章義 注解『千文字』(岩波文庫 1997)

重複なしの漢字一千字を四字一句の250の韻文に編纂した文字学習用の一篇。使用されている故事成語の出典等を注解した李暹の「千字文注」の訳をそえて二句ごと紹介する体裁。中国古代よりの徳目である忠孝に関連するエピソードにもたくさん触れられる。

そもそも学問とは身を立てる根本であり、文章は仕官の基礎である。それゆえ、まず天を開き、地を立てる。三曜(さんよう 日・月・星)がそこから生まれる。二儀(にぎ 天と地)ができてしまえば、四季の秩序も立つ。
夫学者蓋立身之本、文者乃入官之始也。是以開天立地、三曜於是生焉。二儀既立、四節以之由序。
(李暹「註千文字序」p356)

昔も今も「仕官」、すなわち官から仕事を依頼されるくらいになってはじめて学問や文章で「出世」したということになるのだろう。漢詩の世界は仕官に失敗したり、官僚になった後に左遷されたりの憂いがおおいけれども、それでも科挙合格のレベルの能力はみんなそろえていた。遠い世界だけれど、憧れでもそのレベルを視界に入れていないと、学問も文章も身についてはいかないんだろう。

 

蓋此身髪 カイシとけだしこの シンハツのみとかみは、
四大五常 シタイのよつのえだも ゴシヤウのいつゝののりあり。

そもそも此の(われわれの)身体髪膚(しんたいはっぷ)は、
地水火風の四大(しだい)よりなり、仁義礼智信の五つの徳をそなえている。

(37-38句, p68)

 

漢文につけられた日本語の読み(「カイシとけだしこの」など)は「文選読み」というもので、日本人はこういった「異物」の取り込み方の技術が非常にうまい(逆になんでも日本化してしまうといって非難される場合もままあるけれど)。

 

性静情逸 セイセイとたましひしづかなる時は セイイツとこゝろやすし。
心動神疲 シムトウとこゝろうごく時は シンヒとたましひつかる
守真志満 シユシンとまことをまぼれば シマンとこゝろざしみつ。
逐物意移 チクブツとものにしたがへば イイとこゝろうつる。

本性が落ちついている時には、心は穏やかで、
心が動くときには、精神は疲れる。
自然の道を守れば、志は満たされ、
物を追い求めれば、心もそれにつれて変ってゆく。

(97-100句, p165-167)

 

韻は基本的に偶数句脚韻になっている。上記引用部では「疲」と「移」。ちなみに引用の漢字は実際は全部旧字体

「千文字」は書道の世界ではよく使われるようで、繰り返しの手習いの中で、中国古典の世界にも触れられる仕組みになっていて、学習という面でも効率がよさそうだ。こういうことは年齢的にどんどん手遅れになりつつある中で、ちょっとした悲哀とともに気づいていくことが多い。

小川環樹・木田章義 注解『千文字』(岩波文庫 1997)
https://www.iwanami.co.jp/book/b246279.html

 

周興嗣
470 – 521
李暹

小川環樹
1910 - 1993
木田章義
1950 -

 

今道友信『エコエティカ ―生圏倫理学入門―』(講談社学術文庫 1990)

エコエティカ(eco-ethica)とは、人間の新しい生活圏における新しい倫理学、「生圏道徳学」「生圏倫理学」という著者が1960年代に提示した現代に必要とされる哲学。高度技術社会、産業社会の中で失われた徳目、審美眼、品格、聖性といったものをもう一度取り戻そうとする試み。

機械主導型の行為が倫理的であらねばならないとすれば、少なくとも技術社会における機械は、その中に倫理的原理を含まなくてはならないはずです。しかし、機械が可能にするのは、効率の増進と便利の増大です。それは、同一なるものの製作の量的拡大と作製過程の省力化ですが、一語をもっていえば時間の短縮だけです。人間的意識が成立する場として、時間性を考えなければならないとすれば、機械技術の世界というのは時間性を圧縮し、したがって意識を圧縮し、それゆえ、人間的意識の中心としての倫理的思考を圧縮していく構造をもつはずです。
現代は、こうして倫理を考えない世界になろうとしています。
(第一章「エコエティカとは何か」p28-29)

 

現代に対する鋭い考察をしたのちに、著者は効率優先の世界に抗える時熟や時を重ねた上につくりあげられた専門性を持ち合わせた審美眼の復権、拡大の重要性を提起する。個人的には、倫理性を評価するコミュニティの報酬系がうまく機能していなければ、徳目の樹立や倫理観の復権なんて正直無理でしょ、大伴家持菅原道真なんかの時代とは違うもの、とは思うものの、何もないというのもまた居心地は悪い。家や一族というような意識が崩れてしまった今、伝統芸道の世界や政治的パーティや宗門、学問サークルなどに属していないような場合は、自分の人生のスケールを超えて倫理性を考えることもなかなかできない。資源の不足や排出物処理能力の限界から逆説的に倫理性が求められる可能性は高いが、純粋プラス方向での世間的倫理性などは簡単に想像できるものではない。「時熟」とか言われても、どの方向性で人生熟そうとしているのか、少なくとも私にははっきりとした答えはない。ダニやクモのような感覚で効率優先の世界に多少抗いながら日々を生きるのが精々といったところだろうか。


なんだかけなしているようになってしまったが、現代の技術社会を描き出す文章は魅力的だ。状況確認に力を貸してくれる一冊。ポール・ヴィリリオなんかと合わせて読むといいかもしれない。


目次:
第一章 エコエティカとは何か――序論的考察――
第二章 倫理の復権
   1.自然や物に対する人間の責任
   2.人間のエコロジカルな変化
   3.よく生きるための倫理
   4.倫理はなぜ忘れられるのか
   5.技能動物化する人間
   6.身近なエコエティカ
第三章 新しい徳目論
   1.倫理の具体像としての徳
   2.徳目創造の歴史
   3.新しい徳目の創造
第四章 道徳と論理
   1.日本人の道徳意識
   2.技術連関と道徳意識の変化
   3.行為の論理構造
   4.新しい形の技術的抽象
   5.科学技術と人間の自己規正
   6.火のミュートス
第五章 人間と自然
   1.原始自然の中の人間の位置
   2.自然と技術連関
   3.自然に学ぶ
 

bookclub.kodansha.co.jp

 

今道友信
1922 - 2012

佐藤勝彦 監修『図解雑学 量子論』(ナツメ社 2001)

初歩の初歩、入門中の入門の書みたいな体裁をとっているにもかかわらず、具だくさん。しかもきっちりと味付けがしてあって、うまさを感じる。見開き2ページでひとつのトピックを扱っていて、右に図解、左に解説文で、数式が理解できないひとに向けても、しっかりとツボを押さえてくれている。今回3回目くらいの通読になるが、自分の量子論の理解がどの程度進んでいるかのチェックにもなって、ちょっと高まる。再視、再読は一回目よりも高まる。

 

要するに、ある地点にかたまっている波とは、マクロの視点ではほとんど粒と同じような姿になるということだ。実際、このようなかたまりの波は、ニュートン力学であつかえる粒と同じような動きになる。しかしミクロの視点では、波が相対的に大きくなって、波としての性質が表れてくるのだ。(4 何もかも決めきれない世界 「物質波の姿とは?」p142)

 

量子論では「完全に何もない状態」というのは許されない。というのも、量子論には不確定性原理があるが、ゼロでは状態が確定になってしまうからだ。つまり量子論的には、真空も揺らいでいる状態になる。(5 量子論はSFチック? 「ゼロ点振動」p186)

 

量子場のいちばんかじりやすそうな部分、いただきました。今回は不確定性の肯定的側面にはじめて触れさせてもらったような気がした。不確定であるが、それゆえにつねになにかがある世界、なにかがゆらぎ動いている場のイメージができはじめた。


これは、監修者とライターとイラストレーターの魅力がうまい具合にからみ合って、小さな本ならではのよさが埋め込まれている一冊。ふりかえりやすい入門書。

 

目次:
1 量子の世界へようこそ
2 光はジキルとハイド?
3 アトムを分解しよう
4 何もかも決めきれない世界
5 量子論はSFチック?
6 ミクロとマクロのドッキング

 

佐藤勝彦
1945 -

 

エルヴィン・シュレーディンガー『自然とギリシャ人・科学と人間性』(原書 1996, ちくま学芸文庫 2014)

教育は洗脳の側面を持っていると言われるなかで、自主的に学習していこうとする者は進んで洗脳される態勢をとっているカモのようなものなのに、相対論と量子論の洗脳はなかなかきまってくれない。古典力学の洗脳が強くて解けないので、新しい洗脳を弾いてしまう。量子論創始者たちにしてからが、疑念を持ちながらの創出なので、一般人がバッド・トリップもできずに、未消化のまま果実を排出してしまっても、それは致し方無いこと。まずは丸呑みの練習を続けるくらいしか手はないだろうか。

さまざまな観測事実は空間と時間の連続的な記述と相容れず、少なくとも多くのケースでは連続的記述は不可能であるように思える。その一方で、不完全な記述、つまり空間と時間に関して空白のある描像からは、曖昧さのない明確な結論を引き出すことはできず、不確かで恣意的で曖昧な考え方にたどり着いてしまう――それはどんな犠牲を払ってでも避けなければならない! ではどうすべきだろうか? 現在採り入れられている方法に、あなたは驚かれるかもしれない。その方法とは要するに、古典的な理想にかなうような、空白をまったく残さず空間と時間について連続的である記述――「何ものか」の記述――を与える、というものだ。しかし、その「何ものか」が、観測される、あるいは観測可能な事実であるとも言っていないし、ましてや、それによって自然(物質や放射など)の真の姿を記述するとも言っていない。むしろ、どちらでもないことを十分に了解した上で、この描像(いわゆる波動の描像)を使うのだ。(科学と人間性「付け焼き刃の波動力学」p174 太字は実際は傍点)

「どちらでもないことを十分に了解」することが前提条件ということで、居心地の悪さに慣れていくしかない。そのうち慣れるだろうと淡い期待を抱きながら、不都合な観測結果を排出しているこの世界の住人として、変なものに付き合ってみる。

代数学(ディリクレ、デデキント、カントル)を勉強しない限り、連続性の概念が精神的にとてつもない困難をもたらすことは理解できないギリシャ人はその困難に突き当たって、それを十分に認識し、心底かき乱された。そのことが読み取れるのが、辺の長さ1の正方形の対角線に対応する「数」(私たちにとっては√2)が存在しないことに対する、彼らの困惑ぶりだ。(自然とギリシャ人「イオニアの啓蒙運動」p81-82 太字は実際は傍点)

√は現代日本では中学3年生で学習して、何の不思議もなく受け入れられている。実際に使うかどうかは別にして。厳密に考えなければ、そういうものがあると常識化している。相対論も量子論もそのくらいの感覚でまずは取り込んでみたいものだ。

 

目次:

自然とギリシャ人(シアーマン記念講義 1948.05)
 古代の思想に立ち返る動機
 理性と感覚の争い
 ピタゴラス学派
 イオニアの啓蒙運動
 クセノパネスの信条、エペソスのヘラクレイトス
 原子論者
 科学の特別な特徴とは何か?

科学と人間性(ダブリン高等研究所講義 1950.02)
 生き方における科学の精神的意味合い
 真の重要性を打ち消しかねない科学の実際的成果
 物質に対する人々の考え方の根本的な変化
 基本的概念は物質でなく形である
 わたしたちの「モデル」の本質
 連続的記述と因果性
 連続性の複雑さ
 付け焼き刃の波動力学
 主体と対象との境界は崩れたとされる
 原子か量子か―連続性の複雑さから逃れるための古くからの呪文
 物理的不確定性は自由意志にチャンスを与えるか?
 二ールズ・ボーアのいう、予測を妨げるもの

 

www.chikumashobo.co.jp

 

エルヴィン・シュレーディンガー
1887 - 1961
ロジャー・ペンローズ
1931 -
水谷淳
1970 -