読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】12. 指帰 次の瞬間への私自身の回帰

永遠回帰は、次の瞬間をおのれのものとすることへうながす思想。

存在者の《人間化》の懸念
回帰説のためのニーチェの証明
証明手続きにおけるいわゆる自然科学的方法 哲学と科学
回帰説の《証明》の性格
信仰としての回帰思想
回帰思想と自由

この思想の趣意は、各自の《現存在》への指帰を与えている。やがて成り来るものが、私の生において既にあったものの回帰にすぎないとして、それでは今何が存在し、今後何が存在するようになるのかは、まさにこの現存在の中で、現存在の中から決断さるべきである、というのである。
(中略)
われわれは先立って考えることもでき、そしてこれこそが本来の思惟なのである。この思惟の中で、われわれは或る仕方で、かつて存在していたものを確かに知ることができる。しかし変ではないか、――前向きの思惟の中で、後向きのものについて何かが経験されるとは。確かにそうなのである。では、既に何があったのか、そして回帰するときに何がやがて回帰することになるのか。答えは、こうである――それは、次の瞬間に存在することになるものである。もしも汝が現存在を怯懦と無知とそのすべての帰結へと退転するに委せるならば、これらすべては回帰することになり、そしてそれらが、既にあったところのものとなるであろう。また、汝が次の瞬間を、したがって各瞬間を、最高の瞬間へ形成して、ここからの帰結を記録し確保するならば、この瞬間は回帰することになり、そしてそれが、既にあったところのものとなるであろう。
(p471-472)

瞬間が永遠に変われるか否かの意志の強度が思想の核であるようだ。上記引用部分にはプラトンの「想起」もすこし顔をのぞかせているかも知れない。少し気になるのは、意志するにあたっての他者への配慮があまり感じられないこと。自己への配慮の中に他者への配慮が埋め込まれたうえでの意思決定ということをかんがえてもいいのか。自分自身だけで良ければ、ツァラトゥストラが山から下りて来る理由はひとつ消える。

 

「回帰思想と自由」の章は、どことなくハイデッガーぽくない書きっぷりが印象的。

 
マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900

細谷貞雄
1920 - 1995
杉田泰一
1937 -
輪田稔
1940 -