読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

パナソニック汐留ミュージアム監修 ジャクリーヌ・マンク編『マティスとルオー 友情の手紙』(原著 2013, 日本再編集版 みすず書房 2017)

マティスとルオーの出会いは早く1893年パリ国立美術学校のギュスターヴ・モローの教室でのことであった。出会った当初はあまり交流がなかったようだが、その後、サロン・ドートンヌでの守旧派に対しての共闘を経た後、マティスの息子のピエールが画商として活動をはじめでルオーの作品を扱いたいという意向をもつようになると、家族ぐるみでの親密な付き合いがはじまり、多くの手紙を交わすように変化していった。年代的には1930年以降、両者ともに60代をむかえて、老年期に入っていってからの交流である。とくに1940年代以降はより親密さを増すようになったのは、老いた後に二人がともに困難に見舞われ相手を思う気持ちが増したためでもあろう。マティスは腸閉塞での大手術以降の体調が思わしくなく、ルオーは画商アンブロワーズ・ヴォラールの遺族と作品購入の契約をめぐっての長い訴訟に精神をすり減らしていた。お互い老いた後に困難に見舞われながらも最高の仕事をなし遂げていく二人の姿が数々の書簡の中から浮かび上がってくる。

原注や年譜、日本語訳者によるショートエッセイなどで、書簡が送られた時期の背景や、別の人びととのあいだでなされたトーンの異なるやり取りも、重層的に知ることができ、資質の違いを超えて評価し合う盟友の間柄がよりよく感じとれるし、それぞれの画家を理解するための伝記的な資料価値も高い。

また、二人がともに教えを受けたギュスターヴ・モローの教師としての素晴らしさも伝わってくるとともに、三人三様の絵画世界を築き上げたところのめぐり合わせの素晴らしさに心動かされた。アンドレ・ブルトンなどシュルレアリストたちによる再評価はあるけれども、マティスとルオーが存在しなければギュスターヴ・モローはもっとマイナーな存在であったであろうという指摘もエッセイの寄稿者によって書かれていたが、本当かどうかモローの作品に触れることで確認してみたくなった。

資質の異なる三人の画家の存在、特にマティスとルオー、マティスとモローの違いは大きく、マティス自身はそれをよく認識していた節がある。体調の要請もあって軽さを志向したマティスに対して、最後まで苦行僧のように油彩で表現を追求したルオー。ルオーの絵に対してマティスは「力強く痛々しいほどの表現力がある」と言って、苦悩のなかで絵に情熱を注ぐことで自分と観客を救済するルオーを賞讃しつつ憐れんでいる。絵画という受難を受けてしまったルオーの不幸と栄光。マティスの側からのルオー評価が本書のなかではもっとも際立っているようであった。

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【付箋箇所】
8, 10, 13, 14, 16, 17, 18, 51, 53, 153, 220, 256, 260, 

目次:

編者によるまえがき

マティス=ルオー往復書簡 1906-1953年

1906-07年 サロン・ドートンヌ事件
1930年 ふたりのマティス
1934年 画商との確執
1937-38年 絵付けと舞台美術
1941年 占領地区と自由地区
1944年 解放前夜
1945年 ボノムという画家
1946年 「黒は色である」
1947年 ヴォラール裁判
1949年 聖なる芸術
1951年 古いなかンま
1952年 ユネスコ世界会議
1952-53年 最後の邂逅に向けて
1954年 エピローグ

年譜
往復書簡一覧
図版一覧
訳註
原註

 

アンリ・マティス
1869 - 1954
ジョルジュ・ルオー
1871 - 1958
ギュスターヴ・モロー
1826 - 1898