『柄谷行人『力と交換様式』を読む』(文春新書)に収録された講演草稿「交換様式と「マルクスその可能性の中心」」において柄谷行人がマルクスのフェティシズム論に関して多くの示唆を受けたことを示した著作。同じ講演草稿のなかで柄谷行人は、経済的下部構造に還元されないような上部構造が持つ力、生産力と生産関係からでは把握できない観念的な力を見出した人の例として、晩年のマルクス、エンゲルスのほかにヴェーバー、デュルケム、フロイト、フーコーを上げているが、石塚正英『マルクスの「フェティシズム・ノート」を読む 偉大なる、聖なる人間の発見』のなかにはマルクス、エンゲルス、デュルケームに関する論考があり、かなり方向性の近い関心から書かれていることが分かる。
石塚正英の論考は、若いマルクスが関心を持ったド=ブロスの著作の読解に始まり、アダム=スミスやフォイエルバッハを経てモーガン、デュルケムにいたる。石塚正英のフェティシズム論の特徴は、神への攻撃と和解の動的な交互関係を持ち続けるポジティヴ・フェティシズムと、神への崇拝が固定されてしまい交互関係が断たれてしまったネガティブ・フェティシズムに分けて考えているところ、そしてマルクスの物神論を超えて、商品のフェティシズムを超えて、新たな次元のポジティヴなフェティシズムの次元が開かれると説いているところで、これは柄谷行人の交換様式Dについての考えとかなり親和的である。
人間は、動物から人類に転じた時以来、こんにちに至るまで、フェティシズムの世界に生きている。己の産み出した力を社会的力としていったん手放し、これと向かい合い、これに依存する。そのような社会的力は、これを産み出した人びとに優越し、彼らの諸力を組織する。しかし人びとはやがてその向かい合った力以上の力を培うようになり、いままで向かい合ってきた力を見棄てる。見棄てられたくなかったら、いままで向かい合ってきたその力は、これを支える人々の要求に見合うように自己変革して和解しなければならない。
(第2章 フェティシズム史学の樹立にむけて「原始労働を律するもの」より)
国家と資本では満たされない状況に来ているのが現代の人間の姿であるように思う。それでも国家と資本の力以上の力はまだまだ培うようにはなっていないが、国家と資本以外の何かを要求したいという機運は高まってきているようにも思う。柄谷行人に導かれ手に取った石塚正英の著作は、21世紀の世界的な危機的状況の中で、人間的要求と和解可能な社会的力の変革に向けて開かれた姿勢を保つようにすることの支えとなる思索であり、そのような思索の営みに触れることは大事であると気づかせてくれるものであった。
【目次】
第Ⅰ部 【検証】ド=ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』ドイツ語訳の摘要
第1章 アフリカ先住民およびそのほかの野生諸民族におけるフェティシズム
第2章 現在のフェティシズムとの比較における古代諸民族のフェティシズム
第3章 フェティシズムの諸原因
第Ⅱ部 古代史・人類学研究の遺産
第1章 マルクスのフェティシズム論
1 若いマルクスのド=ブロス読書──聖なる人間の発見
2 経済学的フェティシズムの創始──転倒の世界としての宗教の夢幻境
3 老マルクスの先史研究──神を攻撃するフェティシズム再見
第2章 フェティシズム史学の樹立にむけて
1 唯物史観の原始無理解
2 エンゲルス・クーノー・デュルケムの差異
3 原始労働を律するもの
補論 フェティシズムと歴史知
【付箋箇所】
4, 9, 23, 30, 41, 56, 73, 74, 75, 78, 79, 80, 83, 85, 86, 87, 97, 107, 113, 114, 117, 123, 124, 129
石塚正英
1949 -