読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

スピノザ『国家論』( 原書 1677, 岩波文庫 畠中尚志訳 1940, 1975 )世俗の法と自然法

引越し後の一冊目はスピノザ。蔵書整理時にスピノザへの言及があるものを捨てられなかったことを確認できたため、楔の意味合いを込めて新居で何度目かの再読。


捨てられなかった本は的場昭弘『ポスト現代のマルクス ― マルクス像の再構成をめぐって ―』(お茶の水書房 2001 )。第六章「スピノザマルクス ― マルクスにとって弁証法唯物論ははたして必要か」(初出『情況』2001)を引越し前にパラパラと読み返してしまったためゴミ箱行きとはならなかった。この論文はスピノザの『国家論』を中心に、スピノザの思想において歴史の発展や革命というものがありうるのかということが、ヘーゲルマルクスアルチュセール、マシュレ、ネグりなどを引き合いに出しつつ考察されている。強い味が濃密に重なり合っているために、一般読者にとっては全体としてよくわからない調理法なのだが、わからないなりに忘れてしまいづらい奇妙な後味が気になる。たとえば、次のような一文。

スピノザの方法は一切否定を含まず、自己肯定的である。現実にあるあらゆるものの中で、生き残るべきものが残っていくのではなく、何ひとつ否定されることなく、また運動されることなく、現実の動きの中で取捨選択されていくのである。(p98)

「否定」なき「取捨選択」というのはどういうことなのか、よくわからないので実際にスピノザをまた読んで確認したいという気持ちを起こさせるので、非常に厄介だ。

そうした経緯もあり、荷解きしたなかで一番はじめに手に触れたスピノザの『国家論』を読んでみた。専門的には多分いろいろ気にしなければならないことも多いのだろうが、すくなくとも的場昭弘よりは整理されている印象があった。

実に人間は、自然状態においても国家状態においても、自己の本性の諸法則によって行動しかつ自己の利益を計るものである。人間は――あえて言うが――そのどちらの状態にあっても、希望あるいは恐怖によってこれあるいはあれをなしまたはなさないように導かれる。両状態における主要な相違は、国家状態にあってはすべての人々が同じ恐怖の対象を持ち、すべての人々が一にして同一なる安全原因と一にして同一なる生活様式とを有するという点に存するが、このことは決して各人の判断能力を解消しはしない。なぜなら国家のすべての命令に従おうと決心した者は、それが国家の力を恐れたためであると平穏な生活を愛するゆえであるとを問わず、確かに自己の意向に従って自己の安全と自己の利益とを計っているのだからである。(第三章第三節 p37)

個人も国家も他の個人や国家に対しては闘争状態にある。そのなかで「自己の安全と自己の利益」を得るように調整するためには「人々が一にして同一なる安全原因と一にして同一なる生活様式とを有する」ように人間の生活環境を整えていく必要がある。それは無限の実体たる神即自然の自然法の状態のなかで、有限な人間社会の世俗の法を成り立たせる基礎となる。スピノザの『国家論』を単純に読むならば、世俗の法たる国法、さらにはそれをも超える国際法を整えていくには「人々が一にして同一なる安全原因と一にして同一なる生活様式」を追求していけばよさそうに思える。弁証法的展開とか革命とか考えずとも、「すべての人々」が交流し「同一なる生活様式」を目指せる技術であったり体制であったリの社会基盤が整って行く方向性を考えれば、それなりに原始社会からの順次発展も腑に落ちるように思える。

スピノザの死をもって未完に終わってしまった『国家論』の最終節は、女性が男性に対して精神的に劣位にあることを述べている。十七世紀の言説の限界といえば限界だが、そこの議論をすこし引受けてみると、性差は最後まで残るにせよ、男女間における生活様式の違いはスピノザが生きた時代から三五〇年ほど経過した二十一世紀の現在、大きく縮まってきているように思われる。男女間の役割分担のようなものは過去に比較すればずいぶん壊れてきている。家電や各種サービスによる家事労働の代替軽減によって人間の自由化とアトム化が同時進行で進み、単純なカテゴリ分けではうまく社会状況を語れなくなっているのが現在の世の中だろう。また、それが良いか悪いかも単純には語れなくなっているとしても、すくなくとも「同一なる生活様式」が一部実現していることは押さえておいたほうがよいように思う。男女を単純に分けて考えるのは、もうほとんど意味をなさない。

 

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スピノザ
1632 - 1677
畠中尚志
1899 - 1980
的場昭弘
1952 -