読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【中井正一を読む】04. 久野収編『中井正一全集2 転換期の美学的課題』(美術出版社 1981)否定の契機からの離脱展開

中井正一の論文によく引用されているのはカント、フィヒテハイデガーカッシーラー、コーエン、ルカーチといったところだが、実際の論理の組み立てに一番影響を与えているのはヘーゲル弁証法だろう。否定を媒介としてより高い境位にいたるという運動が中井正一のことばで語られなおされることで独自の魅力が加わっている。到達点は絶対精神ではなく自然にそなわる秩序の発見と創造。失敗と修正を身をもって生きることで開かれる世界と自由。それは美一般を語るときにも、日本の美を語るときにも中井正一の思想の核として彼の作品を支えている。

意識が自然的現象でありながら、その法則をトランスフォームすることで、非現実を現実にして、その現実のもつ法則を、自分の現実にそって新たに創造することができることを示すのである。またこのことは、創造であるがゆえに謬って、自分の現実から遊離し、自己疎外することもできるということをも含んでいるのである。
この自由と、誤謬を、満天の星は持っていないのである。太陽ももっていないのである。
ここに意識のもつ尊厳があると共に、その原罪もあるのである。
この意識が現象でありながら、みずからの存在についての「+(プラス)」と「-(マイナス)」をもみずからの機構の中に含んでいることは、みずからの存在の価値の世界を身をもってみずから探りつつあることとなるのである。
(芸術における媒介の問題,『思想』,1947.02 p128-129)

 

新しいとは、吐く息の一つ一つが、命をつぐために、あるいは新しいいのちを生みいずるために、一つ一つの自分の中の死んだものを吐き出すことなのでありますが、その呼吸のいずれかの一つで、断然過去の自分をぬけだすのであります。そのぬけだした、脱落し、脱走して自然を見えた証拠に、彼らは歌をよみ、俳句を吐き、彼らの描いた虎、または竜の眼にその眼睛を点じ、瞳を入れるのであります。
かかる句を吐き、瞳を入れて初めて、「責むる者はその地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理なり」といい、その世界で初めて、「寂(しず)かに見れば、物皆自得す」みんなすべてのものがおのずから安んじていると見えてくるのでります。
(日本の美,『NHK教養大学』宝文館,1952.08 p283-284)

 

厳しい生涯の中でもけっして変わってしまうことのなかった美への思いと明晰で楽天的な思考があらわれた文章は、時がだいぶ経過してしまった今でも美しく、新しい。

 

【付箋箇所】
34, 54, 64, 128, 130, 136, 145, 160, 181, 223, 228, 250258, 267, 283, 287, 307, 315, 324, 328, 336, 343, 354
岩波文庫掲載論文部分は除く

 

収録作品データ:
 芸術の人間学的考察,『理想』,1931.10
 ノイエ・ザッハリッヒカイトの美学,『美・批評』,1932.05
 リズムの構造,『美・批評』,1932.09
 思想的危機における芸術ならびにその動向,『理想』,1932.09
 現代における美の諸性格,『理想』,1934.07
 リアリズム論の基礎問題、二、三,『美・批評』,1934.09
 芸術における媒介の問題,『思想』,1947.02
 近代美と世界観,『近代美の研究』所収,1947.06
 脱出と回帰,『思想』,1951.08
 絵画の不安,『美』(京都市立美術工芸絵画専門学校校友会編集),1930.07
 集団美の意義,『大阪朝日新聞』,1930.07
 レムブランドの生きた道,『大阪朝日新聞』,1937.05
 集団的芸術,『プレスアルト』,1937.09
 ヒューマニズムの憂愁,『映画芸術』,1946.12
 気質(かたぎ),『美・批評』,1932.01
 こつ・気合・呼吸,『大阪朝日新聞』,1933.11
 日本の美,『NHK教養大学』宝文館,1952.08
 転換期の美学,講義聴講者ノート,
 美学概論,講義聴講者ノート,
 
中井正一
1900 - 1952
久野収
1910 - 1999

【中井正一を読む】03. 久野収編『中井正一全集1 哲学と美学の接点』(美術出版社 1981)組織の美、機能美を語る美学者の出発点


1937年治安維持法違反によって検挙される以前の反ファシズムの同人誌、雑誌に発表された論文が多くを占める。時代的なものと京大周辺の研究者を対象読者層としているところから、その表現は熱いが硬く、なかなか読み取りづらい文章である。参照しているドイツ語の文献、概念が訳なしで出てきたりもするので、全部理解しようとするとハードルが高い。ただ、ある程度後期の文章を先に読んでいれば、主張の核の部分にそれほど変化はなさそうなので、調査検索しながら読まなくても全く歯が立たずにいやになるということはない。戦前のいちばん重要と思われる「委員会の論理」を中井正一の全体の活動のなかでよりよく読めるように、まずは全体を通読してみようくらいの気持ちで読んだ。どちらにしろ一度読んだくらいでは中井正一がドイツ系の哲学や美学をいかに咀嚼し自分なりの理解と論理を組み立てていったかは詳細には分からないのだから、難しく感じたら、岩波文庫の『中井正一評論集』を読むか、全集の2巻、3巻の戦後の一般層に向けて書かれた読みやすいものを読んで、慣れていくというのも手だ。

ヘーゲルのいわゆる主体性について最も注意すべきは、分裂そのものが、意識の運命であることである。そして自意識的な主体、すなわちみずからをみずからの対象とすることのできる自立性と自由性は、この分裂の基礎的契機となることである。主体性とは、実体性に対立することにおいてその明瞭なすがたをあらわす。実体性、すなわちピストルの弾のごとき一度の発射の契機が無限の運動をになっているのではなくして、弁証法的主体性では、自らの否定を媒介として、対立契機の中に、常にみずからを規定しつつ発展する過程 process である。常にみずからの崩壊と再建に臨んでいる無限な危機的契機である。ここでは一つの基体は常に二つに分裂して、妥協することなく、連続することなく、その対立の媒介において自らを規定するところの、安らう場所なき発展と緊張である。否定を媒介とするところの党派的契機が、この主体性のどうしても忘れることのできぬ自己規定でなければならぬ。これを実践的主体性と名づけたいと思う。
(Subjektの問題, 『思想』,1935.09 p44 太字は実際は傍点)

第1巻を読んでの印象は、反ファシズム的といわれるような主張が直接的に感じられる文章があまりないような気がするということだ。木下長宏の評伝『[増補] 中井正一 新しい「美学」の試み』でも、中井の検挙は特高の内部ですら無理筋だと思われていたような記載もあるので、論文執筆の重点は政治思想よりも理論的完成形を目指す方にあったのだろうと思う。

【付箋箇所】
18, 24, 34, 42, 44, 112, 114, 133, 134, 154,192, 269, 431, 438
岩波文庫掲載論文部分は除く

収録作品データ:
 模写論の美学的関連, 『美・批評』, 1934.05
 Subjektの問題, 『思想』,1935.09
 委員会の論理, 『世界文化』,1936.01-03
 さまよえるユダヤ人,『カスタニエン』(京都大学ドイツ文学会編集) 1936.10,
 合理主義の問題, 『学生評論』,1937.03
 感嘆詞のある思想, 『学海』,1945.03
 機能概念の美学への寄与,『哲学研究』 ,1930.11
 機能概念の美学への寄与, 『美・批評』,1930.09
 言語, 『哲学研究』, 1927.09, 1928.04
 発言形態と聴取形態ならびにその芸術的展望, 『哲学研究』, 1929.02
 意味の拡延方向ならびにその悲劇性, 『哲学研究』, 1930.02
 カント第三批判序文前稿について, 『哲学研究』, 1927.07
 カントにおける中間者としての構想力の記録, 『哲学評論』, 1949.03
 三木君と個性, 『回想の三木清』所収, 1948.01
 戸坂君の追憶, 『回想の戸坂潤』所収, 1948.10
 回想十年, 『哲学研究』, 1951.02
 書評 9篇
 スポーツ気分の構造,『思想』 , 1933.05
 スポーツの美的要素,『京都帝国大学新聞』, 1935.05-06
 スポーツ美の構造,原稿 , 執筆年月不明

中井正一
1900 - 1952
久野収
1910 - 1999

『樋口一葉小説集』(ちくま文庫 2005)憂い悲しみながら生きている

さきほど給湯器が壊れてお湯が出なくなった。風呂を沸かした直後で風呂には入れるので、まあついているといえばついている。正月休みも明けているので、明日になれば管理会社に連絡が取れるのも、ついているといえばついている。かたちあるものは古びて壊れるのは仕方ないが、思うようにならないことが顔をのぞかせてくると、ちょっとこころはざわつく。

樋口一葉が父の死を受けて家の主となり、駄菓子屋経営を失敗して後、小説を書いて生計を立てはじめたのが明治25年(1892)の20歳の時。それから4年間で22篇の小説をものし、肺結核で24歳で亡くなっている。遊廓のある東京の下町に住む年若い人々の色恋をめぐっての悲しみおおい妄念妄執を、流れるような語りで紡ぎあげている樋口一葉の小説は、悲劇のもつ痛みと輝きを鮮やかに描き出している。最近では一葉作品の現代語訳というものも多く出ているが、語りのリズムまで味わうにはやはり原文のほうが良い。このちくま文庫は十分なルビと、脚注、参考図版で、今の時代の読者にも一葉作品をその本来の姿のまま提供してくれている。明治前半の東京下町の人間関係の狭く近いなかで生活している人間の息遣いが感じられて、大変濃い読書体験を作ってくれる。現代の消費社会のスカスカの関係性のなかで感じる人間の悲しみとはかなり違った、うっとおしい複数の視線が渦巻くなかでの悲しみの世界が控えてくれている。

お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに盥を据へて釜の湯を汲出し、かき廻して手拭を入れて、さあお前さん此子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと為てお出なさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つて居ますからといふに、おゝ左様だと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そゞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台所で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の跡押にと親は生つけても下さるまじ、あゝ詰らぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、父ちやん脊中を洗つてお呉れと太吉は無心に催促する、(「にごりえ」(四)p97-98 ちくま文庫ではルビ付き)

本日はお湯が思うように使えない状態だったので、感想を書こうと思ったら上の場面が思い浮かんできた。23歳、うらやましい文章力。

 

筑摩書房 樋口一葉 小説集 / 樋口 一葉 著, 菅 聡子 著

 

目次:
大つごもり 1894
ゆく雲 1895
うつせみ 1895
にごりえ 1895
十三夜 1895
わかれ道 1896
たけくらべ 1895-96
われから 1896
闇桜 1892
やみ夜 1894

資料篇―同時代評


樋口一葉
1872 - 1896
菅聡子
1962 - 2011

 

【風呂場でガタリ『機械状無意識』を読む】02.顔面性とリトルネロで読み解かれるプルースト

ガタリの『機械状無意識』(原書1979, 訳書1990)はプルーストの『失われた時を求めて』を論ずるために書かれたもので、本来第二部が主役である。「機械状無意識の冗長性物の二つの基本的範疇」としてあげられる顔面性特徴とリトルネロ(テンポ取り作用、あるいは通過作用)という二つの概念を用いることで、ガタリが「驚くべき一大リゾーム地図」とよぶ『失われた時を求めて』の錯綜したディスクールを見事に腑分けし、見通しよくマッピングしてくれている。 プルーストの大作の全体的把握を100ページ程度で提示してくれただけではなく、読み通すことよりもいたる箇所で作動している物事や出来事の分離結合に身をさらすような小さな読書を勧めてくれているようなところもあり、『失われた時を求めて』の世界に足を運びやすくもしてくれている。

最後に明らかにすべき点は次のことであろう。つまり、プルーストが暗示しているものとは違って、まるで探検家か何かのように振舞ってその発見に向かわなければならないような、ある隠された次元、ある本質物の世界がそこで問題となるのでは決してなく、問題となるのは基本的にミクロ-政治的なある次元であって。この次元は主体的秩序状態の「逆転」へと至り、支配的諸冗長性物からその内容を空にし、発話行為脱属領化したり脱個体化したりすることに専念するような、ある新たなタイプのリトルネロの進入を含んでいる。
(第2部 『失われた時を求めて』のリトルネロ 第3章「機械状諸属領性物」 p362)

くりかえし演奏されるヴァントゥイユの小楽節を聴くように、『失われた時を求めて』の幾ページかをつまみ食いするように楽しむ。できればそうしたい。井上究一郎訳のほかにも何種か訳も出て、プルーストを読む環境はより身近になってきているし、今回のガタリが与えてくれた補助線もあるのだが、全10巻にもなる顔面性にはやっぱりちょっとたじろいでしまう。

 

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目次:
第Ⅰ部 機械状無意識
 第1章 序論 ロゴス、それとも抽象機械か?
 第2章 言語から外へ出る
  語用論のくずかご
  言語はそれ自体では存在しない
  統治標識と権力標識
  言語的普遍概念は存在しない
  記号学的拘束、記号論的自動制御
  イェルムスレウへの回帰、それとも迂回か?
 第3章 発話行為アジャンスマン、変型、語用論的領野
  記号内容および記号表現アジャンスマンは空から降ってきたものではない
  資本主義的諸アジャンスマンシニフィアン的抽象化作用
  四つの混合タイプの発話行為アジャンスマン
  三つの限界領野
  間-語用論的領野の諸変形
 第4章 シニフィアン的顔面性、図表的顔面性
  顔面化された意識と対象なき反省的意識
  A 資本主義的顔面性
   脱コード化とされた流れに「服を着せる」ための顔面性
   シニフィアン的二項対立機械としての顔面性
   諸顔面-風景の一方通行的平滑化
   顔面性的統辞法物とシニフィアン的量化作用
  B 図表的顔面性特徴
 第5章 リトルネロの時間
  A 資本主義的リトルネロ
  B 動物の世界における音声的、視覚的、行動的リトルネロの比較行動学
   比較行動学的序列、あるいは生物-行動上エンジニアリング
   領土の多次元性
   ヒヒにおける顔面性-身体性、性、縄張、序列、および自由意志
   若枝のリトルネロ
   第一縄張的系列
   第二の系列 オーストラリアのアトリのリトルネロ
   遺伝的コード化、インプリンティング、学習、即興行為……
   記憶とリズムの共時態
 第6章 スキゾ分析のための基準標識
  モル的および分子的な存在的ミクロ-政治
  諸段階と諸規範
  透写と系統樹、地図とリゾーム
  スキゾ分析と分子革命
  二つのスキゾ分析
  三次元のスキゾ分析
  八つの「原則」
 第7章 (補遺) 諸記号の分子的横断
  A イコン、インデックス、記号システム、言語、および図表的記号論物の機械状系図
   イコン的諸成分
   インデックス的(あるいは指標づけ作用)諸成分
   コード化作用諸成分
   記号論化作用諸成分
   主体化作用諸成分
   意識的諸成分
   図表的諸成分
  B 通過諸成分に関する要約
   非-人間的機械状諸アジャンスマンにおける一般的な通過諸成分と可能物の組織
   記号論化諸アジャンスマンにおける通過諸成分と選択組織
   通過諸成分と資本主義的主体化作用
第2部 『失われた時を求めて』のリトルネロ
 記号論的虚脱としてのスワンの恋
 1つのリトルネロに対する9個のアジャンスマン
 機械状諸属領性物


ピエール=フェリックス・ガタリ
1930 - 1992
高岡幸一
1942 -

 

エルンスト・カッシーラー『現代物理学における決定論と非決定論 因果問題についての歴史的・体系的研究』(原書 1937, みすず書房 改定新訳版 2019)関数に凝縮された経験知

主著『シンボル形式の哲学』以後に展開した量子論のある世界での認識論。まだまだ古典力学の巨視的世界像のなかに住まい、量子論的世界に慣れない思考の枠組みをもみほぐしてくれる哲学書

関数論的な捉え方を重要視するならば、問題はまったく異なった仕方で表現される。そのときには、原子の「存在」をめぐる問い、すなわちその本質と構造をめぐる問いについて、わたしたちが受け取る回答が多種多様であるということは、もはや否定的なことではない。というのも関数というものは、一連の値において次々と自己展開してゆくことにおいてのみ<存在する>からである。それを単一の像に押し込めることは不可能であり、それはそのすべての特殊的形状を一つの普遍的規則のもとに包摂し、そのすべての特殊的形状をさまざまに異なる適用事例として含んでいるのである。この適用事例のどのひとつといえども、そこで認識が立ち止まることのできる最終目標ではない。それはどこまでいってもつねにひとつの里程標、認識が自己の置かれている位置や踏破した道程を読み取ることのできる里程標でしかない。とはいえ、この道程が私たちの前方はるかに先まで続いているということ、いかなる終着点も見えないということ、「これ以上先はなし(non plus ultra)」という点が見えないということ、このことを嘆くには及ばない。というのも、わたしたちが求める真理は、経験的真理としてはつねにひとつの過程の真理でしかなく、最後決定的な真理ではあり得ないからである。この歩みにおいて私たちが統一的<方向性>を堅持し、それを確信しているかぎりにおいて、その方向性のなかに、そして唯一そのなかにのみ、私たちは真理の標識を有しているのである。
(第4部 量子論の因果問題 第二章「原子概念の歴史と認識論によせて」p180太字は実際は傍点)

条件も制限もあるなかでの真理から必然に従うことの自由にいたるシンボル形成能力の視点からみた世界像。ファインマン物理学と併せ読むと物理現象の世界、古典力学量子力学の繋がりと繋がらなさ具合がよりよく飲み込めるかもしれない。

 

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目次:

第1部 歴史的・予備的考察
第一章 「ラプラスの魔
第二章 形而上学決定論と批判的決定論

第2部 古典物理学の因果原理
第一章 物理学的命題の基本型——測定命題
第二章 法則命題
第三章 原理命題
第四章 普遍的因果律

第3部 因果性と確率
第一章 力学的な法則性と統計的な法則性
第二章 統計的命題の論理学的性格

第4部 量子論の因果問題
第一章 量子論の基礎と不確定性関係
第二章 原子概念の歴史と認識論によせて

第5部 因果性と連続性
第一章 古典物理学における連続性原理
第二章 「質点」の問題によせて
最終的考察と倫理学的結論

英訳版の序文
訳者あとがきと解説

 

【付箋箇所】
14, 19, 21, 32, 71, 105, 107, 124, 128, 132, 145, 155, 157, 158, 169, 174, 180, 196, 199, 211, 216, 225, 226, 230, 242, 244, 280, 290, 293, 297, 303, 311, 316, 321

 

エルンスト・カッシーラー
1874 - 1945
山本義隆
1941 -

エルンスト・カッシーラー『シンボル形式の哲学(四) 第三巻 認識の現象学(下)』(原書 1929, 岩波文庫 木田元訳 1997) 量子論時代の哲学

わめき叫んでいた音声から量子論が語られるようになるまで、数の概念がなかったところから虚の世界、複素数が描き出す世界まで、人間のシンボル形成能力を芯に描ききった20世紀の遺産。世界の見方を教え、変えてくれるという哲学の醍醐味が味わえる著作。

ピタゴラス教団の人たちによって思考と存在の根本原理だと確認されたような意味での整数が、つねにおのれ自身の限界を超え出るように駆り立てられてこなかったとしたら、つまり、もし整数が継続的に<拡張され>てこなかったとしたら、「実数」の領域は、現代解析学において獲得されたような形式には構成されえなかったであろう。最初に定立された数概念のこうした拡張の必要性が生じたのは、この数概念が、純粋に数概念自身の領域内で生じた問いにではなく、直感的世界すなわち量の世界が数概念につきつけた問いに答えようとしたことによる。無理数の発見に導いたのも、当初は長さの測定の問題であり、これが、いわば最初に数にはめられていた箍を打ち破るよう数に迫ったのである。その際、はじめのうち無理数そのものは、その呼び名からだけでもすでに明らかなように、数そのものと数に内在するロゴスにとって異質なものだと思われた。
(第3部 意味機能と科学的認識の構造 第5章「自然科学的認識の基礎」 「理想的な要素」と数学の構築にとってのその重要性 p256 )

シンボル形成とともに世界が広がる。

 

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目次:

第3部 意味機能と科学的認識の構造
 概念の理論について
  「自然的世界概念」の限界
  概念
   概念と法則/数学的論理学における概念の位置/クラス概念と関係概念/命題関数としての概念/概念と表象
 概念と対象
 言語と科学―物の記号と秩序の記号
 数学の対象
  数学の形式主義的基礎づけと直観主義的基礎づけ
  集合論の構築と<数学の原理的危機>
  数学理論において「記号」の占める位置
  「理想的な要素」と数学の構築にとってのその重要性
 自然科学的認識の基礎
  経験的多様と構成的多様
  物理学的系列形成の原理と方法
  現代物理学の体系における<シンボル>と<図式>
  

【付箋箇所】
21, 53, 78, 83, 96, 99, 113, 154, 173, 202, 206,243, 252, 256, 261, 268, 277, 283, 297, 309, 329, 331, 333, 347, 348,356, 357, 360

 

エルンスト・カッシーラー
1874 - 1945
木田元
1928 - 2014

 

エルンスト・カッシーラー『シンボル形式の哲学(三) 第三巻 認識の現象学(上)』(原書 1929, 岩波文庫 木田元,村岡晋一訳 1991) 分けすぎてはいけない

ドゥルーズを論じて千葉雅也は「動きすぎてはいけない」といった。カッシーラーの肝はおそらく「分けすぎてはいけない」というところにある。

現象学現象学であるかぎり必然的に意味と志向性の領野にとどまるわけであろうが、その現象学が、意味に無縁なものを指示するということできるものだろうか。事実ここでは「感覚的ヒュレー[質料]と志向的モルフェー[形相]との注目すべき二重性と統一性」が、繰りかえし頭をもたげてくるかもしれない。だが、だからといってわれわれには、「形式なき質料」とか「質料なき形式」といった言い方をする権限が与えられるものであろうか。こうした分離はある意味では、われわれの意識分析のための不可欠な道具の一つかもしれない。だが、果たしてわれわれは、こうした分析的裁断、こうした<distinctio rationis[理性上の区別]>を現象のうちに、つまり意識の純粋な<所与>そのもののうちに移し入れてよいものであろうか。なにしろわれわれはつねに意識現象の具体的全体しか知らないというのに、――アリストテレス風に言えば<質量>と<形相>とのシュノロン[合成体]しか知らないというのに――、さまざまな形式に入りこむ同一の質料的構造成分などといった言い方を果たしてここでしてよいものであろうか。現象学的考察の立場には、「質料それ自体」も「形式それ自体」もありはしない。
(第2部 表出機能の問題と直観的世界の構造 「シンボルの受胎」p388-389 太字は実際は傍点、 ヒュレー、モルフェー、シュノロンにはギリシア語が同時表記)

心身問題を語るときも同様で、一体としてしか存在しないものを、分けずに分析していくところがカッシーラーの主戦場となっている。

 

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目次:

序論
 認識の実質と形式
 シンボル的認識とそれが対象世界の構築にとって有する意義
 内的経験における<直接的なもの>-心理学の対象
 近代形而上学における直観的認識とシンボル的認識

第1部 表情機能と表情世界
 主観的分析と客観的分析
 知覚意識の基本契機としての表情現象
 表情機能と心身問題
 
第2部 表出機能の問題と直観的世界の構造
 表出の概念と問題
 物と属性
 空間
 時間直観
 シンボルの受胎
 シンボル意識の病理学に寄せて
  失調理論の歴史におけるシンボル問題
  失語の病像における知覚世界の変化
  物の知覚の病理学に寄せて
  空間・時間・数
  行動の病的障害

【付箋箇所】
41, 45, 50, 59, 71, 74, 84, 87, 90, 100, 112, 114, 127, 143, 175, 180, 182, 184, 193, 198, 209, 219, 221, 260, 310, 331, 336, 347, 350, 360, 364, 383, 388, 395, 397, 442, 449, 488, 499, 526, 528, 531, 533

 

エルンスト・カッシーラー
1874 - 1945
木田元
1928 - 2014
村岡晋一
1952 -