読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

金春禅竹(1405-1471)『歌舞髄脳記』ノート 04. 「第四 雑体」

禅竹の生のことばとともに歌論ベースの能楽論を読みすすめる。引用される歌の匂いだけでも景色がすこし変わりはじめる。

ただ、心深く、姿幽玄にして、詞卑しからざらんを、上果の位とす。故に、古歌幷に詩を少々苦吟して、其心を曲体の骨味とし、風姿の品を分ちて、上類の能体を選ぶ。

 04.「第四 雑体」で取りあげられた曲目とその九位の位と取り合わせられた歌

第四 雑体
  是等かゝり、皆此心なるべし   
 藤原定家  都べはなべて錦となりにけり桜を折らぬ人しなければ  
     
丹後物狂 正花風 秀逸のかゝり (作者:世阿弥)  
 源通光:武蔵野はゆけども秋の果てぞなきいかなる風の末に吹くらむ  
  しほるゝ処、哀れなる感あり。   
 西園寺公経:旅衣たつ暁の別れよりしほれしはてや宮城野の露  
     
芦刈 浅文風 有心体 (作者:世阿弥)  
 西行法師:津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風渡るなり  
     
錦木 広精風 遠白体 (作者:世阿弥)  
 慈円:岡の辺の里の主をたづぬれば人は答へず山颪の風  
     
邯鄲 妙花風 高山のごとし (作者:観世元雅 or 金春禅竹)  
 安法法師:世をそむく山の南の松風に苔の衣や夜寒なるらん  
     
鵜飼 正花風 写古体 (作者:榎並左衛門五郎 改作:世阿弥)  
 大江匡房:秋来れば朝けの風の手を寒み山田のひたに任せてぞ引(ひく)  
   ※秋来れば朝けの風の手を寒み山田の引板をまかせてぞ聞く(新古今和歌集)  
     
通小町 妙花風 高山体 (作者:観阿弥改作)  
 宜秋門院丹後:吹はらふ嵐の後の高嶺より木葉(このは)曇らで月や出(いづ)らむ  
     
船橋 正花風 至極体 (作者:世阿弥改作)  
 藤原定家:嵯峨の山千代の古道跡とめてまた露分くる望月の駒  
     
恋重荷 正花風 花麗体 (作者:世阿弥)  
 源俊頼:うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮  
     
太山府君 寵深花風 幽玄体 (作者:世阿弥)  
 藤原定家:こきまずる柳の糸も結ほほれ乱れて匂ふ花桜かな  
     
自然居士 浅文風 事可然(ことしかるべき)かゝり (作者:観阿弥)  
 藤原実房:急がれぬ年の暮れこそあはれなれ昔はよそに聞きし春かは  
 在原業平伊勢物語):寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば いやはかなにも成(なり)まさるかな  
    
俊寛僧都 閑花風 不明体 (作者:観世元雅?)  
 慈円:ながむればわが山の端に雪白し都の人よ哀(あはれ)とも見よ  
     
歌占 強細風 古(いにしへ)を写すかゝり (作者:観世元雅)  
 伊勢(伊勢物語):君来むと言ひし夜ごとに過(すぎ)ぬれば頼まぬ物の恋ひつつぞ経(ふ)る  
 源実朝:箱根路を我(わが)越えくれば伊豆の海や 沖の小島に浪の寄る見ゆ  
     
王昭君 閑花風 麗体 (作者:不詳)  
 藤原俊成:仙人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし  
   ※山人(やまびと)の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし  
 藤原定家:道のべの野原の柳萌えにけりあはれ昔の煙くらべや  
   ※道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きの煙くらべにある  
     
蟻通 妙花風 拉鬼体 (作者:世阿弥)  
 藤原良経:ぬれてほす玉ぐしの葉の露霜に天照る光幾世経ぬらん  
     
塩竈(融) 寵深花風 強力体 (作者:世阿弥)  
 聖武天皇:妹に恋和歌の松原見渡せば塩干の潟にたづ鳴き渡る  
   ※妹に恋ひ吾(あが)の松原見渡せば潮干の潟に鶴(たづ)鳴き渡る  
     

「第四 雑体」はここまで。

 

金春禅竹世阿弥娘婿)
1405 - 1471
世阿弥
1363 - 1443
観世元雅(世阿弥長男)
1394? - 1432

ジャック=アラン・ミレール編 ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』上下巻(原書 1973, 岩波書店 2000, 改訂版岩波文庫 2020 )理性と無意識の関係など

フロイトに還れ」を旗印に20世紀以降の精神分析学の一大潮流を作ったラカンの20年にもおよぶ講義の11年目の講義録。精神分析の四つの基本概念である「無意識」「反復」「転移」「欲動」について、分析家の養成を目標に置きながら講義がすすめられている様子をのぞき見できる。読み通しての驚きはいくつかあって、そのなかで一番に来るのは講義録での語りのことばと著作『エクリ』などに収められたラカン自身によって実際に書きしるされた文章との差異。この講義録のなかでは10ページ程度の「後記」がラカンが書いた文章で、その書き方は錯綜していて、何かを明確に伝えようとする意志とは別のものが感じられる。ラカン精神分析の特徴把握については本書だけではこころもとなくとも、ほかの講義録や解説書を読んで行けばどうにかなりそうではあるが、ラカン自身の著作に親しみ、難解さの意味を味わうのはハードルが高いように感じた。とりあえず『エクリ』に手を出すのはやめておこうと決めることができたのが、本書を読んだひとつの成果である。

講義の中心課題である四つの概念は箇条書きで明示するようなかたちは取られていないので、他の講義録を含めて徐々に親しんでいく必要があるように思えたが、本講義録の中では、これらの基本概念をめぐって先行する思索者たちに言及する部分が単独でも興味深く読むことができた。フロイトは別格として、ソクラテスプラトンモンテーニュデカルトスピノザ、カント、ヘーゲルハイデガーメルロ=ポンティ、リクールなどへの精神分析学側からの言及はそれぞれ刺激的だ。同時代人としてラカンによって解釈され直された思索者たちの思索は、新たな現代性をまとい講義録の中に新鮮に配置されている。文庫化にあたって翻訳が改訂されたこともいい方向にはたらいているのかもしれない。

「理性の声は低い、しかし、いつも同じことを語る」とフロイトはどこかで言っています。フロイトが無意識の欲望についてまったく同じことを言っているのだ、と結びつける人はいないのですが、無意識の欲望においてもその声は低い、しかし、その執拗さは不滅なのです。つまり、おそらくその二つの間に関係があるということです。
(下巻 「〈他者〉の領野、そして転移への回帰」XIX 解釈から転移へ p299 )

上はフロイトの「ある錯覚の未来」のなかのことばを引いて、ラカンの考えを付け加えている部分。理性と無意識の関係性を示唆することで、読むもの聞くものに新たな刺激を与えてくれている。ラカンの有名な定式で「無意識は一つの言語(ランガージュ)として構造化されている」というものもあるが、理性の推論も無意識の表象操作も根源的な抽象化作用の現われで、直接眼に見えず操作することもできないが、人間のはたらきを基本的に左右することで通じているというようなことを思わせてくれたりもする。

 

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目次:

[上巻]

 I 破 門

無意識と反復
 II フロイトの無意識と我われの無意識
 III 確信の主体について
 IV シニフィアンの網目について
 V テュケーとオートマトン

対象aとしての眼差しについて
 VI 目と眼差しの分裂
 VII アナモルフォーズ
 VIII 線と光
 IX 絵(タブロー)とは何か
 
[下巻]

転移と欲動
 X 分析家の現前
 XI 分析と真理、あるいは無意識の閉鎖
 XII シニフィアンの列の中の性
 XIII 欲動の分解
 XIV 部分欲動とその回路
 XV 愛からリビード

〈他者〉の領野、そして転移への回帰
 XVI 主体と〈他者〉──疎外
 XVII 主体と〈他者〉(Ⅱ)──アファニシス
 XVIII 知っていると想定された主体、最初の二つ組、そして善について
 XIX 解釈から転移へ

このセミネールを終えるにあたって
 XX 君の中に、君以上のものを

編者説明文
後 記
講義要約


著者:ジャック・ラカン
1901 - 1981

編者:ジャック=アラン・ミレール
1944 -

訳者:小出浩之、新宮一成、鈴木國文、小川豊昭

金春禅竹(1405-1471)『歌舞髄脳記』ノート 03. 「第三 女体」

世阿弥の「九位」における位に次いで「撫民体」のように「~体」で分類されているその元となる体系は、藤原定家の「定家十体」といわれるもの。定家の著作「毎月抄」には出てこない「遠白体」などが含まれているので、藤原定家作に仮託された歌論書という鵜鷺系偽書(『愚秘抄』『三五記』『愚見抄』『桐火桶』など)が参照されていると考えられる。能楽に大きな影響を与えたのは、この鵜鷺系偽書と言われている。

 

第三 女体     
  これは天女がかり。此姿、皆此心   
 僧正遍照:天つ風雲の通ひ路吹閉ぢよ乙女の姿しばしとどめむ  
     
佐保山 寵深花風  (作者:金春禅竹?)  
  匂ひある姿   
 藤原定家(『拾遺愚草』):後も憂(うし)むかしもつらし桜花うつろふ空の春の山風   
     
箱崎松 浅文風  (作者:世阿弥 復曲:観世清和)  
  物ほそく、見ざめせぬ姿、竹の体歟   
 藤原秀能:夕月夜汐満ち来(く)らし難波江の芦(あし)の若葉を越ゆる白波  
     
鵜羽 正花風  (作者:世阿弥)  
  これは竜女がかり   
 藤原俊成:立ち返りまたも来てみん松島や雄島の苫屋(とまや)浪に荒らすな  
     
遊屋(熊野) 寵深花風  (作者:世阿弥?・禅竹?)  
  これよりは常の女がかり。(中略)ことに此風姿、春の明けぼののごとし。   
 藤原定家(『拾遺愚草』,『『定家卿百番自歌合』):真木の戸は軒端の花のかげなれや床もまくらも春の明ぼの  
  心底切なるところ、強力体歟   
 菅原道真:流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底  
     
松風村雨 寵深花風  (作者:世阿弥)  
  此心・姿、秋の夕暮れのごとし   
 不明:もしほくむ海士のとま屋のしるべかはうらみてぞふく秋 のはつかぜ  
  拉鬼体   
 碁檀越妻:神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に  
     
井筒女 閑花風  (作者:世阿弥)  
  月の木隠れなる所ある歟   
 藤原道信:限りあれば今日脱ぎ捨てつ藤衣はてなきものは涙なりけり  
     
江口女 閑華風  (作者:世阿弥?)  
 沙弥満誓:世の中は何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟の跡の白浪  
     
求塚 広精風  (作者:観阿弥世阿弥改作)  
  此姿、濃やかなる体なり   
 式子内親王:ながめ侘ぬ秋より外(ほか)の宿もがな野にも山にも月や澄むらん  
     
砧女 寵深花風  (作者:世阿弥)  
  此姿、恋慕に乱るゝ心。   
 西行法師:人は来で風の気色(けしき)も深(ふけ)ぬるにあはれに雁の音づれて行く  
     
静 閑花風  (作者:世阿弥)  
  見る様なるかゝりなり   
 寂蓮法師村雨の露もまだひぬ槙の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮  
     
山優姥 閑花風  (作者:世阿弥)  
  此心、至極之体歟。   
 宜秋門院丹後:山里は世の憂きよりも住み侘びぬことの外なる嶺の嵐に  
 上東門院中将:このころは木々の梢に紅葉して鹿こそはなけ秋の山里  
     
小野小町 妙華風    
  古を写す心   
 慈円:津の国のながらの橋は跡もなし我老の末のかからずもがな  
     
三井寺 正花風  (作者:不詳 世阿弥?)  
  景極体など云べき歟。   
 慈円:見せばやな志賀の唐崎(からさき)麓なる長等(ながら)の山の春の気色を  
     
柏崎 広精風  (作者:榎並左衛門五郎 改作:世阿弥)  
  物哀れなる体。   
 西行法師:小篠原(をざさはら)風待つ露の消えやらずこのひとふしを思ひ置くかな  
     
花形見(花筐) 浅文風  (作者:世阿弥)  
  幽玄のかかり   
 伊勢:思ひ川絶え流るゝ水の泡のうたかた人にあはで消えめや  
     
百万 寵深花風  (作者:世阿弥)  
  理世体歟   
 詠み人知らず:山寺の入相(いりあひ)の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき  
     
班女 広精風 麗体 (作者:世阿弥)  
 紀貫之:思ひかね妹がりゆけば冬の夜の河風寒み千鳥鳴くなり  
     
隅田川 浅文風 撫民体 (作者:観世元雅)  
 寂蓮法師:物思ふ袖より露やならひけむ秋風吹けばたへぬものとは  
 源通光:浅茅生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな  
     
檜垣女 妙花風 強力体 (作者:世阿弥)  
 能因法師:閨の上に片枝さしおほひ外面なる葉広柏に霰降るなり  
     
浮舟 寵深花風 理世体 (作者:横越元久、作曲:世阿弥)  
 藤原清輔:ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき  
      
「第三 女体」はここまで。

 

金春禅竹世阿弥娘婿)
1405 - 1471
世阿弥
1363 - 1443
観世元雅(世阿弥長男)
1394? - 1432

金春禅竹(1405-1471)『歌舞髄脳記』ノート 02. 「第二 軍体」( + 世阿弥の「九位」と利用資料について )

妙花風をはじめ『歌舞髄脳記』に現われる「~風」の概念は、世阿弥が『九位』の中で説いた芸の位をあらわすことば。上・ 中・下の三つに分けられ、能にたずさわる者が身につけるための稽古の順は「中初・上中・下後」とすべきとされている。芸道の順位としては一番上に上三花「妙花風・寵深花風・閑花風」、次いで中三位に「正花風・広精風・浅文風」があり、下三位は「強細風・強麁風・麁鉛風」となる。禅竹は『歌舞髄脳記』で曲体ごとに曲目を評価するときにこの「九位」の分類法を使用している。

 

02.「第二 軍体」で取りあげられた曲目とその九位の位と取り合わせられた歌
※歌の作者情報に加え、曲目の作者情報も追加

軍体   
  此姿、皆この心なるべし 
 源実朝:武士(もののふ)の矢並つくろふ籠手の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原
   
源三位頼政  寵深花風 抜群体 (作者:世阿弥
  物の中に抜け出でたる姿 
 藤原清輔:年経たる宇治の橋守事問はん幾世に成りぬ 水の源(みなかみ)
  又ほのかなる姿、幽玄にもかなふ 
 壬生忠岑:在明(ありあけ)の難面(つれなく)みえし別(わかれ)より 暁ばかり憂き物はなし
   
越前三位通盛  正花風 存直体 (作者:井阿弥)
  心ざしありて、又直なる道を存する心 
 大納言経信:夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろやに秋風ぞ吹く
   
薩摩守忠度  寵深花風  (作者:世阿弥
  幽玄之姿也 
 元良親王:侘びぬれば今はたおなじ難波なる身を尽くしても逢んとぞ思ふ
 平忠度:行暮(ゆきくれ)て木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし
   
斎藤別当真盛(実盛)  広精風  (作者:世阿弥
  此心、花麗なり 
 橘忠幹(伊勢物語):忘るなよほどは雲井になりぬとも空行(ゆく)月のめぐりあふまで

大夫進(だいふのしん)朝長  広精風 澄海体 (作者:観世元雅?)
  此心、梅のごとし 
 宜秋門院丹後:なにとなく聞けば涙ぞこぼれける苔の袂にかよふ松風

左中将清経  浅文風  (作者:世阿弥
  濃(こま)やかなる姿なり 
 藤原俊成:散らすなよ篠の葉草のかりにても露かかるべき袖のうへかは

「第二 軍体」はここまで。

 

【利用資料について】
紙の書籍:

 岩波書店 日本思想体系24『世阿弥 禅竹』(校注:表章加藤周一)1974
 ※2021年時点では、日本思想大系(芸の思想・道の思想) 1『世阿弥 禅竹』として発行されている(品切れ中)

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デジタル情報:

国立国会図書館デジタルアーカイブ
能楽古典 禅竹集』(吉田東伍 校註[他] 1915 能楽会発行)

dl.ndl.go.jp


金春禅竹
1405 - 1471
世阿弥
1363 - 1443

 

※雨に濡れた夜の桜。車もほとんど走っていない深夜、街灯に照らされる街路樹の桜は妖艶。
平忠度の「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」が沁みて、桜の精がボーっと出てきてもおかしくない心境になる。

 

 

金春禅竹(1405-1471)『歌舞髄脳記』ノート 01.「第一 老体」

金春禅竹という一流の能楽実践者による歌舞論。各曲の姿かたちを、先行する和歌に込められている心と取り合わせるとともにカテゴリー分けして伝えようとしている。『歌舞髄脳記』は、基本的に謡曲一曲につき和歌一首が召喚されることだけが芯にあるシンプルな論考なのだが、呼び出すこと自体がその和歌に対する言祝ぎにもなっていて、禅竹の残した筆と思考の運動のなかで、かつてはじめて詠われたその歌が、発生の時のみずみずしさをまとって、いままた新たに生まれたかのような鮮烈さを放って新たに存在し直している。『歌舞髄脳記』のことばたちは個々の謡曲の内容に分け入って分析していこうとしているわけではなく、どちらかといえば能の曲の風体を発想のもととして編まれた究極の和歌のアンソロジーを作ることに奉仕しているようだ。教養のある者たちにとっては金春禅竹によって『歌舞髄脳記』に引用されている和歌が誰のものであるのか、すぐにわかるほど有名なものに違いないのだが、時代が下った令和の世にあっては、各勅撰和歌集に当たり前のように浸り情緒を身につけるという訓練がされていないものがほとんどであるから、岩波書店の『日本思想体系』のような注なしの扱いでは、歌の作者がわからないという面での居心地の悪さが若干湧いて来る。このノートはその居心地の悪さを埋めるため、ちょっとした注の代わりである。

 

01.「第一 老体」で取りあげられた曲目とその風体と取り合わせられた歌

カテゴリ:

老体
  藤原良房:年経れば齢(よはひ)は老ぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし

曲目ごとの風体とその姿:

老松   妙花風
  柿本人麻呂梅の花それとも見えず久堅の天霧る雪のなべて降れれば

相生松  正華風
松木の体)
  凡河内躬恒:住吉(すみのえ)の松を秋風吹くからに声うち添ふる沖つ白波
(遠白き体)
  藤原良経:天の戸を押し明方の雲間より神代の月の影ぞ残れる

西行桜  閑花風
  藤原定家:散りまがふ木本(このもと)ながらまどろめば桜にむすぶ春の夜の夢

吉野西行 妙花風
  寂蓮法師:立出て妻木をこりし片岡の深き山路と成りにける哉
  紀内侍:鶯よなどさは鳴くぞ乳や欲しき小鍋や欲しき母や恋しき.

雲林院  閑花風
(至極体)
  源俊頼:日暮るれば逢(あふ)人もなし正木散(ちる)峰の嵐の音ばかりして


「第一 老体」はここまで。
※基本的に『歌舞髄脳記』にある姿のまま歌は写しています。


金春禅竹
1405 - 1471
世阿弥
1363 - 1443

中沢新一『精霊の王』(講談社 2003, 講談社学術文庫 2018 )神楽、申楽、猿楽の翁という日本的精霊、後戸の神の振舞いに感応する精神と身体

『精霊の王』は、著作の位置としては『日本文学の大地』『フィロソフィア・ヤポニカ』のあと、カイエ・ソバージュシリーズの執筆を行なっていた時期の作品。この後、『アースダイバー』『芸術人類学』とつづいている。
『日本文学の大地』で能の理論家として世阿弥よりも金春禅竹を高く評価していたことに魅かれ、岩波書店の『日本思想体系24 世阿弥 禅竹』と同時に読みすすめた。確かに禅竹の著作は、能の芸術論、技法論というより、理論、哲学、カテゴリー論に力点が置かれているため、能舞台を鑑賞したり謡曲を習ったりということをしていない、謡曲を文芸として享受している層には、世阿弥より魅力的に感じるものであった。
『精霊の王』は特に禅竹の『明宿集』に深く心を動かされた中沢新一が、『翁の発生』などの折口信夫の業績や、近年の神話や民俗学的な研究の成果を咀嚼しながら、柳田国男の『石神問答』の衣鉢を継いで、縄文以前の信仰の対象のおもかげを色濃くとどめる「宿神=シャグジ」の姿に迫るという野心作。『明宿集』は自身で現代語訳して収録しているほどの念の入れよう。世阿弥と比較すると論考の対象として十分の一以下の水準に止まってしまっている禅竹を、現代的に蘇らせようとしている意欲を感じる。「翁」とは「公」の「羽」であるという禅竹の思考のひとつに触れるだけでも、本書は時間を割いて読む価値があるものと私は思う。

性質の違うものを、単一の原理に無理やり従わせて均一にならしてしまうのが「一神教的テクノロジー」のやり方であるとするならば、異質なものの異質性をたもったまま、おたがいの間に適切なインターフェイス=接続様式を見出すというこの列島で発達したやり方は、「多神教的テクノロジー」とよぶことができるかもしれない。
テクノロジーはけっしてひとつではないのである。人間が頭で考えだしたプログラムにしたがって、自然の側を制圧し、変化させてしまおうとするテクノロジーばかりではなく、自然の側からの反応や手応えを受けつつ、人間の行為の側を変化させていくことによって、人間と自然との対称的な関係にもとづく、対話の様式としてつくりだされるテクノロジーというものもある。金春禅竹がはっきりと取り出して見せた宿神のトポロジーは、まさにこのような構造をしている。
(第十章「多神教的テクノロジー」 p256 )

生成の受容者、自然のはたらぎを言祝ぐ者としての翁、宿神。ときに荒ぶる神と成りながらも、超越者としてではなく世界の一端を担う小ささやかそけさや仄暗さを失わないひとつの現れとしての自然神=自然法。人工物にも接続してさまざまな偏光を得させるようにもする見えにくいなにか、感じにくい場のはたらき。人為が届かないものに対する繊細な感性としての翁、その翁が幽かだが偏在しているとする金春禅竹中沢新一がおのれの身をもって演じる、時空を超えた二人舞。

bookclub.kodansha.co.jp

 

【付箋箇所】
32, 51, 73, 89, 107, 108, 119, 124, 177, 180, 209, 229, 256, 307, 313, 324, 332, 336, 354

目次:
プロローグ
第一章  謎の宿神
第二章  奇跡の書
第三章  堂々たる胎児
第四章  ユーラシア的精霊
第五章  緑したたる金春禅竹
第六章  後戸に立つ食人王
第七章  『明宿集』の深淵
第八章  埋葬された宿神
第九章  宿神のトポロジー
第十章  多神教的テクノロジー
第十一章 環太平洋的仮説
エピローグ 世界の王
現代語訳『明宿集
あとがき


中沢新一
1950 -
金春禅竹
1405 - 1471

オリヴィエ・コーリー『キルケゴール』(白水社文庫クセジュ 1994)異質な世界を観ている人の世界観への案内

歴史に残る偉人というものは、凡人からみればみな変態で、消化しきれないところがあるからこそ意味がある。異物感、異質感。複雑すぎて味わいきれないニュアンス、踏み入ることのできない単独性を帯びた感受性の領域を持つ人間の観ている世界。おそらく消化しきれないまま何度も反芻する時間の経過に中に、他者キェルケゴールが経験するであろう感覚世界と己の感覚世界の唯一無二の微かなアレンジメントが積み重なり、その時間の蓄積の先に呼びかけの対象として盟友「キェルケゴール」が生まれてくる。なかなか複雑なキェルケゴール、まだ呼びかけの対象となるにはいたってはいないが、お試し期間はこちらの向き合う意志がくじけない限り継続していくことができる。生身の人間にはない書物ベースの情報交換世界の利点のひとつ。

アイロニー」と「フモール」(ユーモア)の差異について興味はあるものの、キリスト教受肉と贖罪の信仰の世界をベースに思索の世界が語られているとなかなか近寄れないが、書物を媒介としての間接的な思想の交流の世界では、宗教的存在としてのイエスを相対化しながら、構造を浮き出させてくれている。

アイロニーが、審美的なものと倫理的なものとおあいだにあり、厳密にいって、そのどちらの段階にも属さないような「動揺」(Svaevning)であったのと同様に、フモールは、倫理的なものと宗教的なものとの境界であり、『あとがき』では宗教性A(倫理的なものとの連なりのなかにあるもの)と宗教性Bとのあいだに置かれている境界である。フモールとは、キリスト教的な宗教を前にして尻込みしてしまう倫理的なものの挫折の意識である。
(第5章 実存の諸段階 Ⅳ 宗教的段階 4「フモール[諧謔]」p135-136 )

「宗教性A」、「宗教性B」などという、日常的な用語で区分できない世界を切り分けたうえで、活動する必要があるとするキェルケゴールと一般的市民との間には大きな差異がある。その差異をまず感じるところから、別世界への道筋が開けてくる。

本書は、小さいながらキェルケゴールの世界全般を対象にした、とても読み応えのある、複雑な書物であった。

 

【付箋箇所】
44, 69, 71, 72, 745, 83, 85, 88, 92, 95, 106, 121, 135, 139

目次:
第1章 生涯と著作
第2章 著作とその伝達
第3章 実存の思想
第4章 総合としての実存
第5章 実存の諸段階

オリヴィエ・コーリー