読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

入矢義高 注『寒山』(岩波書店 中國詩人選集5 1958)

中国江蘇省蘇州市にある臨済宗の寺、寒山寺に伝わる風狂超俗の伝説の僧、寒山拾得のうちのひとり、寒山

禅画・水墨画に描かれる異形瘋癲の寒山の姿を想い起す人のほうが多いであろうが、そのイメージとはかなり異なる姿が寒山の詩からは読み取れる。

本書は寒山詩といわれる300余篇の内から186篇を選んで、原文、読下し、訳注、現代語訳の構成で詩の魅力を紹介する一冊。白隠禅師などに遡ることのできる日本の複数の旧解釈や、源氏物語の翻訳者としても有名なアーサー・ウェイリの英訳寒山詩などにも目を配りながら行われる綿密な詩句の注釈と、原文に沿った現代口語的意訳が本書の特徴で、かなり読ませる。詩句の引用参照元などの案内も豊富で、漢詩世界における差異と反復の奥行きの深さを感じさせてくれる。

寒山は八・九世紀の人である。彼とその兄弟は親譲りの田畑を耕していた。しかし彼は兄弟と縁を絶ち、妻と家族に別れ、諸方を放浪しながら、多くの書を読んだ。そして取り立ててくれる人を求めたが、徒労に終わった。彼は遂に寒山に隠棲し、かくして寒山という名で知られるようになった。この隠棲地は、寺院と道灌で有名な天台山から約二十五マイルのところで、寒山もしばしばそこを訪れた。(Arthur Weley: 27 Poems by Han-shanから 訳:入矢義高 「解説」p12-13)

バラエティ豊かな詩の題材からみても寒山と呼ばれる一人の人物が実在したかどうかはかなり怪しく、複数の人の手によって作り上げられた隠棲詩人として捉えたほうがよいというのが本書が説くところで、そうした指摘のもとに何回か読み返してみると、寒山のイメージをもとにした創作アンソロジーのようで、違った面白さも出てくる。仕官しようと勉強していた時代に読んでいた儒学五経、神仙の気味を自然の中に見ながら読んでいる老荘道教の書物、心に仏性を認め寒山の石の上に坐り読んだ仏教の経典。儒・仏・道の三教の世界観と、俗世に生きていた時代の思いと、隠棲後の超俗世界の感覚が詩毎にそれぞれ変わって現われるところが、複数回寒山詩を読んでも飽きない要因となっている。もとは天台山国清寺の豊干、拾得の詩と併せて寒山詩集となっていることからも分かるように仏教的な要素がいちばん強く出ているが、寺に籠っているような宗教くささはない。また、自他に対する辛辣さとそこはかとないユーモアがない交ぜになっているところが魅力になっている。

烝砂擬作飯
臨渇始掘井
用力磨碌甎
那堪將作鏡
佛説元平等
總有眞如性
但自審思量
不用閑爭競

真如は人すべてに本来的にそなわるものだという如来蔵思想が詠われている作品。最初の四行の入矢義高訳は以下のとおり。

砂を蒸して飯にしようとしたり、のどがかわいてから井戸を掘りにかかるなど、まるでナンセンスな話だ。
いくら力んであのゴロリとした煉瓦を磨いてみたところで、どうしてそれを鏡にすることができよう。

口語的な独自の訳し方も心地よい。

ちなみに寒山詩の注釈書は中国にはないそうで、日本人好みの作風であるのかもしれない。

www.iwanami.co.jp


入矢義高
1910 - 1998
アーサー・ウェイリ
1889 - 1966
    

揖斐高 編訳『江戸漢詩選』(上下全二巻 岩波文庫 2021)

日本文学古典注入。

日本漢詩がもっとも栄えた時期は江戸時代だということすら知らないほうが普通というくらいに現代では顧みられることの少ない漢詩の世界だが、明治近代へとつながっていく江戸の詩歌を、俳諧と和歌だけで考えるのは大きな間違いのような気がして、いまさらながら手に取って読んでみた。岩波文庫での最新の江戸漢詩アンソロジー。詩人150人・320首を集めている。
良寛頼山陽だけはまとめて読んだことはあるものの、ほかの詩人の作品は大概初見となるので、まずは原詩と訳注は軽く眺めるだけにして、読下し文と現代語訳を中心に読み通してみた。
編訳者揖斐高の編集方針として江戸時代を5つの期間に分けたうえで作者の生年順に作品を紹介しているのが本書の特徴となる。全巻読み通してみると19世紀以降の江戸後期から作風が大きく転換していることがはっきり感じられて、江戸時代260年の漢詩の流れを体感できたという気にさせてくれるところがわりと嬉しい。この転換については、編訳者の巻末解説に詳しい。詩は心の霊妙な働きから生まれるという明朝の袁宏道の性霊説の詩論の導入と、商人の台頭に伴う文芸の大衆化・全国化によるものであるという。

第四期「後期」(享和―文政期頃)は、古文辞格調派から清新性霊派へという詩風の転換によって、江戸漢詩儒者を中心とした知識人層の文学という枠を越えて大衆化し、地域的にも京都・大阪・江戸という大都市から地方の小都市へ、さらには郷村地帯にまで広がりを見せ始めた時期である。そして、性霊説の主張によって盛唐詩が絶対的な規範としての地位を失ったため、相対的に宋詩とくに南宋詩に対する見直し評価が行なわれ、盛唐詩的な「高華雄渾、古雅悲壮」な表現よりも、南宋詩的な写実的で温和な風景描写や日常生活の表現が喜ばれるようになった。
(「解説」下巻 p472-473 )

地方詩壇もぞくぞく出てきて活発な詩作と批評が行なわれた江戸時期以降の作品は、作者の出自も作品の題材もバラエティに富んでいて、現代的な興味関心からしてもわりと入り込みやすい。上巻先頭から読みはじめて単調さや退屈を感じるようであれば、下巻から読みすすめるのも手ではないかと思う。『江戸後期漢詩選』という単独の本だと思ってしまえば気も楽になる。

私が全体を通して興味を持った詩人とその作品は以下のとおり。

・独庵玄光「晩眺」
祇園南海「老矣行」
服部南郭「春草」
・秋山玉山「看雲叟」
・菅茶山 全般
・市川寛斎「窮婦嘆」
中島棕隠「首尾吟示琴廷調」
・草場佩川「十不吟」
・大塩中斎「天保丙申秋登甲山」
藤田東湖「有客贈一酒瓢者、愛翫不置、賦瓢兮歌」
・広瀬旭荘「雨夜与松園象山渓琴話怪」
・小野湖山「放歌行」

とくに菅茶山のリアリスティックな眼差しと鮮やかな詩語は、もう少し追ってみたいと感じさせるものがあった。

www.iwanami.co.jp

www.iwanami.co.jp

目次:
幕初期(慶長―貞享期 1603-1688頃)
前 期(元禄―宝暦期 1688-1764頃)
中 期(明和―寛政期 1764-1801頃)
後 期(享和―文政期 1801-1830頃)
幕末期(天保―慶応期 1830-1868頃)

揖斐高
1946 -

 

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』(中央公論新社 2019)

キュニコス派犬儒派ディオゲネスから説きおこし、ストア派初期のゼノンから後期のマルクス・アウレリウスまでの哲学をたどる概説書。

自分の力ではどうにもならない外的条件に対してどのように振舞うのが良いかに焦点を当て、意志の力で自己統率し運命に向き合うことを良しとしたストア派の哲人たちの思考を、多くの名言をちりばめながら年代順に紹介している。

自身が皇帝であるマルクス・アウレリウス、肯定に仕えたキケロセネカなど、まさに政治の中枢で活動した人物が多くいたにもかかわらず、ストア派の思考の主たる対象に政治が入っていないという本書の指摘は、いわれてみればそのとおりで、ポリスを統治する哲人王や法律の考察が前面になることはなく、もっぱら個人の精神に現われる心像との対峙の仕方に重点が置かれる。ストア哲学は政治哲学ではなく処世の哲学であり幸福論である。それから、外的条件としての運命一般については、それが神意であると考えられていた時代であるということもストア派の著作に触れるにあたっては知っておいた方が良いことかもしれない。作者の國方栄二はストア派の哲人たちを時に仏教の僧侶と比較したりするのだが、神や仏を前提とした世界での自足の態度の顕彰をあまりに強調しすぎると、外的条件と自身の選択の過剰な現状肯定になってしまう可能性もあり、よくない場合も出てくるだろうなというのが私の読後感のひとつとして残った。

運命は望む者を導き、望まぬ者を引きずっていく(セネカ『倫理書簡集』107,11)

諦念ではなく反知性主義的でもない運命愛(ニーチェ)を鍛え上げていくことが現代にも通じるストイックな生き方であるらしい。

本文が読みものとして満足できるものであるのに加え、本文以外で、著者による参考書の案内と編集者による巻末の索引とストア派名言・名句集がたいへんよく出来ていて、素晴らしい。しっかりした仕事をしている。

www.chuko.co.jp

【付箋箇所】
34, 43, 45, 74, 90, 91, 106, 131, 136, 144, 168, 173, 175, 178, 182, 198, 209, 233

目次:
第一章 自然にしたがって生きよ――キュニコス派
第二章 時代が求める新しい哲学――ストア哲学の誕生
第三章 沸き立つローマの市民――ストア哲学の伝承
第四章 不遇の政治家――セネカ
第五章 奴隷の出自をもつ哲人――エピクテトス
第六章 哲人皇帝――マルクス・アウレリウス
終 章 ストイックに生きるために


國方栄二
1952 -

 

佐々部英男訳『梟とナイチンゲール 中世英語問答』(ゆいぽおと 2020)

どことなく宮澤賢治が書きそうな話。キリスト教法華経の世界の違いはある。

重く冷静な梟と軽く陽気なナイチンゲールが互いに退かずに自分の優位性について言論でもってはりあっているところに面白味がある。

原詩の成立時代は12世紀後半中世であっても、おとぎ話的世界の日本語訳作品なので、ほとんど古さは感じない。ストレスなく読める詩劇。全1794行。

鳥たちや神々の世界、市民や農民の世界を描ける現代の画家の作品と取り合わせて、絵本か詩画集にするといいかもしれない。

己の財を過信するなかれ。
冷めぬほどあついものはなく
汚れぬほど白いものはない。
嫌われぬほど好ましいものはなく
怒り出さぬほど喜ぶものはない。
(1274~1278行)


佐々部英男
1926 -

 

長尾真, 遠藤薫, 吉見俊哉 編『書物と映像の未来 グーグル化する世界の知の課題とは』(岩波書店 2010)

特定の私企業に知的財産権があるものの運用や保管を任せてしまっていいものか、すべてがデジタル化されてしまっていいものかという懸念を広く取り上げた一冊。市場原理にしたがう私企業が突然の態度変更することへのおそれと、デジタル化した後の紛失や劣化あるいは保存媒体の規格外れによるアクセス不能などによる資産価値の劣化および喪失に対するおそれが、各論者たちの論考の背景として色濃く浮かび上がってくる。その不安は妥当なもので、図書館や博物館あるいはフィルムセンターなどの公的機関による取り組みの重要性が説かれている意味も十分に理解できる。後はどれだけの予算をかけるべきものなのかというところの話になると思うのだが、具体的なコストの見積もりはほとんどなされていない。コンテンツの生産と維持保管にかかる費用がどれくらいの規模になるか、それが利用者だけでなく非利用者を含めて文化的納得できる金額かどうかということになると、かなり難しい議論になってくるのだろう。第3章「書物の公共性とは何か」で元平凡社編集局長の龍澤武が語っているところによると、2008年現在、全国に3126館ある公共図書館によって、人文書でいえば1000部購入されるようになれば、人文系出版文化の再生産が可能になると見積もられている。美学者で国会図書館館長でもあった中井正一も部数は違えど公共図書館による研究書の購入がされれば知的文化が守られるというようなことを言っていたが、専門家の研究書に重点的に公的予算が割り振られることにどれだけの人が納得するだろうか? 例えば今年岩波書店から新たに刊行されるスピノザ全集が1000館1000冊も必要だろうか? 1県当たり20冊を超えるスピノザ全集があるという事態はそれほど悦ばしいことではない。死蔵されているに過ぎない状態が目に浮かんでくる。蔵書として保管するスペースも限りがあるのだから考えなければならなし、生産年齢人口が減り続けるのであるから予算の使い道はいままで以上に十分に慎重でなければならない。文化が衰退するのは避けたいところではあるが、何もかもうまくいくようには世の中はできていない。大方の理解を得られるところでエキスパートの人たちに舵取りをしていってもらうほかはないような気がしている。

 

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所】
4, 8, 10, 36, 41, 44, 45, 57, 62, 64, 84, 85, 98, 137, 155, 159, 160

目次:
はじめに

I 書物の未来

第1章 書物と図書館の未来 長尾真〔国立国会図書館長〕
第2章 グーグル問題とは何か 柴野京子東京大学大学院学際情報学府博士課程〕
第3章 書物の公共性とは何か――グーグル問題をきっかけとして考える 龍澤武〔東アジア出版人会議理事・元平凡社編集局長〕
第4章 グーグル・ブック・サーチ――近未来の著作権 名和小太郎情報セキュリティ大学院大学特別研究員〕
コラム 書き手としての立場から 上野千鶴子東京大学大学院教授〕

II 映像とネット文化の未来

第5章 映画文化財の長期保存――問題点の整理とフィルム・アーカイブの役割 岡島尚志東京国立近代美術館フィルムセンター主幹/国際フィルム・アーカイブ連盟会長〕
第6章 放送アーカイブの新たな動き――「公共的利用」の視点から 大路幹生〔NHK放送総局ライツ・アーカイブスセンター長〕
第7章 これは誰の映画か?――ドキュメンタリー映画とアジアの共通の記憶 テッサ・モーリス―スズキ〔オーストラリア国立大学教授〕
コラム 映像アーカイブの社会的共有とメディア・リテラシー 伊藤守〔早稲田大学教授)
第8章 メタ複製技術時代における〈知〉の公共性 遠藤薫学習院大学教授〕
第9章 公共知の未来へ――デジタルの衝撃とメディア文化財 吉見俊哉東京大学大学院教授〕

 

プラトン『ソピステス ―〈あるもの〉(有)について―』『ポリティコス(政治家) ―王者の統治について―』(岩波書店 プラトン全集3 1976)

パルメニデスやゼノンに連なるエレア派の論理学を学んだであろう「エレアからの客人」を対話の主人に据えたプラトンの後期対話篇2篇。ソクラテスは対話導入部にほんの少し顔を出すだけで、後期プラトンの思想を代弁する「エレアからの客人」が、「分割法(二分割法, ディアイレシス)」と呼ばれる二分割法による論究の方法を用いて、ソフィストとは何者か、すぐれた政治家とはどういったものかということを、追及していく。『ポリティコス(政治家)』は『国家』でも語られている哲人王の優位性が論証され、『ソピステス』ではソフィストの欺瞞性や偽物性が明らかにされているのだが、結論自体よりも、その大きく迂回しながら最終結論にいたるまでの綿密な論考の動きを体感するのが、これら対話篇の醍醐味である。とくに『ソピステス』の哲学における最重要五類(五つの形相・イデア)として「有」「異」「同」「動」「静」を挙げ、イデアの分有という関係性を導入することで「非有〈あらぬもの〉」があることを導きだしていく部分は、現代思想にもよく取り上げられる論考であり、読み応えがある。ただ、本文を一度だけ読んで素直に理解できるかというと、なかなかそうはいかない。どこか煙に巻かれたような印象も持ってしまいがちだが、そこはなんどか読んで慣れるようにするか、ほかの解説書や解説文とあわせ読んで理解するようにするしかない。そうした意味では、『ソピステス』の訳者である藤沢令夫の巻末解説文は、限られたページ数でコンパクトにまとめあげられていて、さすがプロフェッショナルの仕事と感心させられた。
今回読んだ『ソピステス』と先日読んだ『ティマイオス』は、プラトンの対話篇ではぜひ手許に置いておきたいと思わせるもので、どこかの出版社で刊行してもらえるとありがたい。慣れ親しむためには、やはり手許に置いておかないと無理だ。

【付箋箇所】

藤沢令夫訳『ソピステス ―〈あるもの〉(有)について―』
236E, 239A, 243A, 248A, 249D, 256A, 258D, 
解説:
397, 400, 404, 406, 407, 409, 417, 418, 422, 425, 426

水野有庸訳『ポリティコス(政治家) ―王者の統治について―』
266D, 276D, 283B, 286A, 295A, 299E, 300E, 301E, 303B, 307E, 310C

www.iwanami.co.jp


プラトン
紀元前427 - 紀元前347
藤沢令夫
1925 - 2004
水野有庸
1928 - 2008

 

山内志朗『感じるスコラ哲学 存在と神を味わった中世』(慶應義塾大学出版会 2016)

感覚を持つ身体を基体として、個体性をもったハビトゥス(習慣)が生まれ、人生がかたちづくられる。ハビトゥスが方向性を生み出しながら、それぞれの生が営まれることを、主に中世の修道院の生活から解き明かしていったエッセイ的論考。中世の精神と生活の具体相を、人間の感覚と世界の交わりとの観点と、神学を中心とした中世哲学とキリスト教の信仰生活から、ゆるやかに描き出した語り口のまろやかな一冊。

感覚は現在を測る器官ですが、経験において繰り返され、記憶や身体図式のなかにとどまるものとなり、未来を組み込む能力になったときにハビトゥスが生まれます。「実体」という閉じた枠組みを飛び出し、未来をあらかじめ取り込みながら、関係性を基礎にしようというのが一四世紀に現れた流れだと思っています。
(「終わりに」p183-184)

身体を捨象した抽象的な思惟可能性よりも、身体とともに具体的な経験的世界を形づくる表象可能性の重要性を再考しようと書き上げられた本書では、表象不可能なもの(例えば宗教的な法悦と苦痛)に向かいながら、それを表象のなかに取り込もうとしたマイスター・エックハルト以降の神秘主義の系列が再評価される。神秘主義者各個人の具体的な体験とそれについての言語的記述は、中世世界ではより下位に位置づけられていた感覚のうち味覚と触覚に親和的であるということをより大きな視点から描き出すために、味覚と味覚になぞらえられる感覚としての味わいや趣味嗜好の西欧中世世界での様相が広く語られているのも興味深い。飲料に適した水の不足からワインが常用の飲み物として朝から飲まれていたという時代的文化的背景を皮切りに、ワインがもたらす各種酩酊のキリスト教世界における罪の軽重に話が及び、酩酊から宗教的法悦へと話がスムーズに展開していくところは、読んでいて心地よい。
ほかに、プラグマティズムの哲学者チャールズ・サンダース・パースのスコラ哲学への傾倒と、詩人ホプキンスのドゥンス・スコトゥスへの親炙、アッシジの聖フランチェスコへの言及などに興味がひかれた。

 

www.keio-up.co.jp

【付箋箇所】
7, 9, 18, 27, 33, 36, 45, 56, 108, 114, 137, 140, 146, 152, 154, 170, 172, 174, 181, 183

目次:

前書き ―― スコラ哲学の感覚

Ⅰ 中世の五感
第一章 中世における「感じる」こと
第二章 霊的感覚と味覚
第三章 ワインの中の中世神学
第四章 神に酔う神学

Ⅱ ハビトゥスから神秘主義
第五章 ハビトゥス形而上学
第六章 享受の神学的背景
第七章 神秘主義という感覚

終わりに

 

山内志朗
1957 -