読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』(哲学書房 1991, 牧神社 1976)

寄る辺なく取り付く島もない虚無の場としての無底、それに憤る意志が運動として何故か発生し(神と呼ばれる何ものかの性格を帯び)、存在の根拠となる底なるものを形成し、さらには善と悪のふたつの極相をもつ世界が創造され、その創造が被造物の存在と運動ともにいま現在もつづいているとするベーメの世界観。神秘的著述家としての前期の作品『アウローラ(黎明)』から、長年にわたる弾圧と沈黙を経て、49歳で亡くなるまでの最後の五年間、運命的ともいえる怒涛の展開の全体を、本書は統一あるものとして明晰に解析し、初学者にも極力わかりやすいように、本当に図を用いながら、図式化して提示してくれている。それでも矛盾を孕んだ体系は、運動そのものである創造の自由を逆に照射しているようにも見えた。

闇は、光を見ておどろき、永遠のショックのうちにあり、光の世界が闇のなかに宿るために、闇は光をおそれて永遠にふるえ続け、それにもかかわらず光をとらえることはできず、こうして闇は、生命と運動性の原因であって、かくして、すべては神をほめたたえるためにある……
「なぜならば、すべての生命は、毒の中にあり、そして、光だけが毒に対抗できるのであるが、光はまた毒が生き続け、憔悴しはてないように、[毒の]原因となっているのである。
(「欲の七段の梯子(領域2)」より)

『光の子と闇の子』を書いた現代的アメリカの自由主義神学者ラインホルド・ニーバーの分かりやすく躊躇のない善悪二元論とは異なり、悪の創造性に創造的眼差しを向けていた近代初頭のベーメの割り切れなさにある奥深さを丁寧に掬っているようである。

私がヤコブベーメの作品をいくつか読みすすめていた時、ベーメの善悪ともにありながら二極化と再統合の争いのうちにある創造世界を、老子のタオと陰陽の創世の世界観に類似性について思いをめぐらせていたのだが、本書の作者南原実は朱子学の教えに結び付けてベーメ論を展開していたことに貴重な示唆を受けた。南原実はベーメの「無底」と「底」に対して以下のような見解を述べている。

ヨーロッパの文化よりも中国の思想になじみのある私たち日本人は、「底」を「極」とおきかえたい誘惑にかられる。朱子学のいう「無極而太極」の句が、私たちの頭に浮かぶのであって、無極がUngrundであるとすれば、太極がGrundとなる。極は、まさに根底、根拠、根、締めくくりであって、原因、根源ではなく、太極は、万化の根底であり、極は、また中心を意味する。
(「無からはじまって(領域1)」より)

残念ながら戦後教育を受けた世代にとっては中国の思想にそれほどなじみがあるとはいえず、朱子学がどういったものかについてもそれほど明瞭なイメージを結ぶことはできないのが現状である。ただ、こういった書物の中での馴染みない感覚に対する出会いは、その世界への新たな導きでもあって、ベーメの神秘思想を足場にしながら、朱子学の世界をのぞいてみるきっかけにもなるのであった。

【目次】
第1部 生涯
 25歳のある日まで
 残された25年
第2部 パノラマ
 無からはじまって…
 欲の七段の梯子
 ルチフエルの反逆
 第3の創造
 アダムとソフィア
 大団円
 新たなはじまり
第3部 作品一覧


【付箋箇所】
23, 32, 51, 56, 65, 71, 74, 87, 102, 120, 126, 140, 141, 144, 158, 160, 163, 179, 203, 213, 224, 229, 232, 236, 241, 243

 

ヤーコプ・ベーメ
1575 - 1624
南原実
1930 - 2013