読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

李舜志『ベルナール・スティグレールの哲学  人新世の技術論』(法政大学出版局 2024)

未完の主著『技術と時間』の生前最終刊行の第3巻が2013年に邦訳されてから翻訳が滞ってしまったスティグレール。師デリダ差延の思考に多くを負いながら、ハイデガーの技術論を批判的に継承し展開した思索が「人新世の技術論」とも呼ばれることになったスティグレールの生涯の思索の全体像を、新世代の学究が比較的ざっくばらんなスタイルで描き出して紹介した書物。専門的な部分も押さえながら一般読者層に向けてスティグレールの思索や実践の方向性を独特の距離感で伝える本作品は、大学出版局から発行されるよりも、新書を発行している大手出版社から出されたほうが似合いの著作のような雰囲気を持っている(たぶんそんなには売れないだろうけど)。

私自身は『技術と時間』の2巻目の途中まで読み進めたところで、スティグレールのほかの邦訳書にくらべて理解の度合いが少なくて問題だと思いはじめ、助けを求めるような気持ちで「本邦初の入門書」という本書を手に取ってみた。現時点でAmazonのレビューは1件しかなく文面は厳しめ(ただし評価は4)のものだが、原書を読めないような私のような層にはかなり役に立ってくれる本だった。特にフッサールの『内的時間意識の現象学』を批判的に評価し展開したスティグレール思想の根幹ともいうべき、今の記憶としての「第一次過去把持」、個人の長期記憶としての「第二次過去把持」、一般的に技術と言い換えられる意識の外に外在化し「後世系統発生的記憶」として特徴づけられる「第三次過去把持」との関係性をシンプルに図式化して示してくれたところには、研究者と教育者としてのしっかりした仕事を感じ取ることができた。

また、日本にはあまり伝わっていないフランス国内での社会的活動やその活動を支えていたところのスティグレールのリアルな思考傾向や向かうべき未来像についての情報を与えてくれているところも本書ならではのものである。スティグレールはユニバーサル・ベーシック・インカムを肯定的に考え、労働から解放されたものたちがホワイト・ハッカー的に活動することで成り立つ世界を理想としていたことが伺え、トーマス・モア的ではなく奴隷制のないウィリアム・モリスユートピアへの道を実践的に模索していたことが伺える。その実現性についてはおおいに疑問を抱くものの、労働から解放された余暇のなかで、資本主義的産業構造のなかには取り込まれずらい非消費的でアマチュア愛好者的な模倣反復の振舞いに価値を見出しているところにには惹きつけられた。

本質的に貴族でないものが貴族的に振舞うよう訓育され、それが広範囲に持続可能であるような社交世界。散財しないで楽しむことでも全体が停滞しない経済流通の世界。生産的視点から見れば無為と断じられもするそれが、いかに実現可能かは置くとして、可能的なものであると生涯をかけて想像し近づこうとした人がいたという事実に、本書で触れることができる。

執筆者のスティグレールに対するちょっとそっけない態度もまた読み手を長く引き込む効果があるようで面白い。

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【目次】
はじめに

序章 人新世からネガントロポセンへ
 1 人新世とは何か
 2 エントロピー増大の法則
 3 ジョージェスク=レーゲンと技術
 4 ネガントロポセンへ

第1章 技術は手段ではない
 1 メノンのアポリア
 2 テクネーとエピステーメー
 3 一般器官学
 4 声と記録の「正確さ」

第2章 人間と技術の誕生
 1 エピメテウスの過失
 2 人類は足からはじまった
 3 プログラムの外在化
 4 差延と人間の発明

第3章 「私」になること
 1 時計と「ひと」
 2 個体化とファルマコン
 3 心的かつ集合的個体化

第4章 チューリング・マシンと意識の有限性
 1 チューリング・マシンの無限の記憶
 2 第一次過去把持と第二次過去把持
 3 過去把持の円環構造と有限性

第5章 アテンションをめぐる戦い
 1 注意の中のテンション
 2 第三次過去把持と予期せぬもの
 3 希少な資源としてのアテンション

第6章 資本主義の三つの精神
 1 プロテスタンティズムの倫理とオティウムの喪失
 2 フォーディズムと制作知の喪失
 3 文化産業と生活知の喪失
 4 六八年五月と資本主義の新しい精神

第7章 自動化する社会
 1 ビッグデータと夢の在庫化
 2 デジタル上の蜘蛛の巣
 3 アルゴリズムによる統治の何が問題なのか

第8章 雇用の終焉、労働万歳!
 1 自動化による雇用の終焉?
 2 労働の解放、労働からの解放
 3 ハッカー倫理による労働の再定義
 4 現代のラッダイトたち

第9章 協働型経済
 1 協働型経済の目的──ケイパビリティ・アプローチ
 2 協働型経済の場所──地域をケアする
 3 協働型経済の収入──実演芸術家の断続的収入
 4 セーヌ=サン=ドニでの協働型プロジェクト

終章 今を生きるトビウオたちのために

さいごに 
あとがき

【付箋箇所】
24, 28, 34, 36, 41, 43, 44, 46, 47, 51, 53, 55, 62, 65, 66, 69, 71, 82, 89, 91, 100, 101, 105, 112, 116, 117,  119, 125, 128, 131, 141, 146, 149, 150, 151, 173, 198, 201, 206, 208, 211

李舜志
1990 - 

kenkyu-web.hosei.ac.jp

ベルナール・スティグレール
1952 - 2020

ja.wikipedia.org