読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

野口米次郎「「最早なし」の沙漠」(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

「最早なし」の沙漠

 無が「最早なしの宇宙」を包むまで、私の魂は暗黒と沈黙、いな神様と住んでゐる。
 ああ、大いなるかな無よ!
 ああ、力強いかな「最早なしの沙漠」よ、そこで数かぎりなき存在が永劫の死に眠り、神様も私の魂も死する所。闇黒も沈黙も死する所………ただ無が最後まで生きる所だ。
 誰が自然の咳払ひする声を聞いたか。
 その声静まる時、宇宙再び寂(せき)として無為にかへり、私の魂は異教徒の殿堂に於いてのやうに、この宇宙の名もない様々の偶像を接吻し廻る。
 
(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.003

小川和也『デジタルは人間を奪うのか』(2014)

テクノロジーには良い側面もあれば危険な側面もあるということの再確認。テクノロジーの進歩を享受しつつ新しい世界の姿に適応していく労力も惜しんではならない。

本来、デジタルの船に乗り込んだわれわれには、これまでの偉大な想像よりももっと偉大な創造を成し遂げるチャンスが与えられているはずだ。デジタルの船がわれわれを導こうとしている世界は、きっと新たな可能性に溢れた大陸なのではないだろうか。その大陸に辿り着くための原動力は、人間の思考だ。デジタルの船の中でこそ、思考することの価値を理解し、情報や知識と思考の掛け算というテコの原理を働かせよう。それにより、すばらしい発見や発明、創造がなされ、よりよい未来が切り拓かれるはずだ。
デジタルに人間を奪われるのではなく、豊かな未来のためにデジタルを生かす。人間から思考する力を奪うデジタルの力学は、まるで未必の故意のようだ。しかしそれは、われわれ人間自身の気づきと努力で回避することができる。(第6章 「考える葦」であり続ける p185)

待ち受けるだけではなく、迎え入れ、自分も変化していく。AIとともに活性化した将棋界のように。

bookclub.kodansha.co.jp

内容:
はじめに
序 章 デジタルの船からは、もはや降りられない
第1章 デジタル社会の光と影
第2章 モノのネット化で変わる生活
第3章 ロボットに仕事を奪われる日
第4章 仮想と現実の境界線が溶ける
第5章 脳と肉体にデジタルが融合する未来
第6章 「考える葦」であり続ける
終 章 デジタルは人間を奪うのか
おわりに


小川和也
1971 -

野口米次郎「芭蕉」(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

芭蕉

 風は陽炎の野から吹いて来る。雲の殿堂から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る。幻の夢の谷から吹いて来る、天と海が溶け合ふ処から吹いて来る。風は悲しみの詩を追ひ廻し、涙の世界へ灰色の歌をうたふ狂人だ。
 私は耳を塞ぎ風の歌を聞かない。私の魂は私の貧しい体に住むひとりぼつちの住者だ……さぞ私の心は寂しからう。
 君は私の門前に立つ一つの勇敢な姿を見たことがあるか、それは死骸を冷たい地上に横たへる破れた芭蕉の姿だ。彼は暗黒を胸に巻き勇敢にこの冷たい世界を見つめてゐたが、彼は今死んで仕舞つてゐる。
 
(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.002

レナード・コーレン『Wabi-Sabi わびさびを読み解く for Artists, Designers, Poets & Philosophers 』(1994, 2014)

稲越功一の木の写真についてのキャプション。自然を切りとるフレームに対する感性という指摘。

わびさびは、単にある一定の特徴を備えた手つかずの自然のことではない。人は、それに際立った文脈を与え、それを少なくとも「フレームに入れる・構成する」取り持ちをせねばならない。写真は、そのようなフレームを提供する。(p96-97)

 レナード・コーレンのわびさびに関する文章が、モノクロームの写真とあいまって、静かな生成と消滅の世界を切り出している。芭蕉の「造化にしたがひ造化にかへれ」という言葉も思い浮かんでくる。

宇宙は消滅する一方で生成もする。新しいものは無から生じる。(中略)わびさびの表現においては、多分に恣意的ではあるが、消滅のダイナミクスの場合はほとんどの場合少し暗く、曖昧で、静寂なものの中に表れる傾向にある。生成しているものは少し明るく、輝きがあり、明快で、若干目に止まりやすい。そして(西洋圏においては何もない空間である)無は可能性に満ち溢れている。形而上学的な表現で言えばわびさびは、宇宙が潜在的可能性に近づいたり遠ざかったりして常に動いていることを伝えている。(「わびさびの形而上的原理」p45)

 

www.bnn.co.jp


目次:
イントロダクション

歴史的視点等からの考察
曖昧化の歴史
暫定的な定義
モダニズムとの比較
歴史的概略

わびさびの宇宙
チャート
わびさびの形而上的原理
わびさびの精神的価値
わびさびの心
わびさびの道徳的戒律
わびさびの物質的特性

Making“わびさび"
わびさびをつくる
理論的概念としてのわびさび
なぜわびさびが重要なのか?

注釈
写真キャプションとクレジット
巻末エッセイ


歌手ということで唄も聴いてみた。
レナード・コーエンの唄。

www.sonymusic.co.jp

こちらはわびさびの世界というよりも、こじんまりとした焚火(キャンプファイア)を囲んでいる世界のようだった。禅の世界ではなく神がいる世界の唄。

レナード・コーエン
1934 - 2016

野口米次郎「寂寞の海」(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

寂寞の海

 樹木の影に虚空の色がある、その下を私の「自己」が倦怠の雲のやうに、「どこか」へふはりふはりと動いて往く。
 ああ、寂寞の海だ!
 私はこの深さ、否な深さのない深さの顔、否な顔のない大きな顔の上を浮かんでゐるやうに覚える。
 永久に海岸のない、底のない、空のない、色のない、沈黙が波うつ静かな水に、わが過ぎ行く魂の影など有る筈がない。
 ああ、私は知なく愚なく、善も無ければ悪もない、若し私が神様ならば、驚くべき消極的の神様だ。
 沈黙を破る鶉一声………鶉が後の山から寂寞の海へ飛込んだ。
 ああ、何たる声の反響、何たる色の帰還、底も空も再び顕はる!
 何処にも永劫の沈黙はない。この瞬間に私の極楽は遂に亡びた。
 私は喜びも悲みも、愛も嫌悪も、成功も不成功も、美も醜も要らない、ただ冀(ねが)ふ所は「最早なし」に於ける偉大なる「無」の一つだ。
 
(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

野口米次郎
1875 - 1947

※野口米次郎の詩 再興活動 No.001

野口米次郎の詩

筑摩書房現代日本文學大系41で野口米次郎の詩を読んだ。目的は鈴木春信の「雪中相合傘」を主題とした詩だったが、残念ながら収録されてはいなかった。また代表的な作品『二重国籍者の詩』も収録されておらず、ネット検索しても詩集がほとんど出回っていないことが分かった。消えた詩人のようになってしまった原因は、戦争協力に対する非難と二重国籍者としての自嘲をそのまま詩人の評価としてしまったところにあるようだ。生前は評価も高く、現在でも色々なタグ付けが可能な詩人であるにもかかわらず、読まれる環境が準備できていないというのはかわいそうに思える。
近年、堀まどか『「二重国籍」詩人 野口米次郎』のサントリー学芸賞受賞などによって再評価の機運も上がっているようにもみえるのだが、もっと実作に簡単に触れられるようにしてもらいたいものだ。

まずは簡単に触れられる野口米次郎の肖像として堀まどか氏の論文2点などにも注目してほしい。
・野口米次郎のラジオと刊行書籍に見る「戦争詩」--『宣戦布告』と『八紘頌一百篇』を中心に
・野口米次郎の英国講演における日本詩歌論--俳句、芭蕉象徴主義

ci.nii.ac.jp

 

空しい歌の石

雨が降ると私の夢はのぼる……六月の雲のやうに、
歌が、私の耳もとに湧きたつ、
風より軽い足拍子が、或は高く、或は低く、
波うち、私の眼は夢で燃える。
『私は何者だ?』
『奈落の底の幽霊だ、
夜暗の上に空しい歌の石を積みあげ、
焔のやうに踊り狂って、やがては消えうせる。』

まだ、消えうせてしまってはもったいない。

 

野口米次郎
1875 - 1947

別冊宝島2440 田辺昌子監修『肉筆浮世絵 美人画の世界』(2016)

菱川師宣、鳥居清信から歌川国芳月岡芳年まで22人、82点の作品で浮世絵美人画の世界を紹介。
幕末に向かう溪斎英泉以降の19世紀美人画に描かれる流行の面長のつり目顔がどうして流行ったのか? 自分の趣味と違うものに対する興味が湧いた。

文政期(1818~30)に流行したのは、それまでの潮流とはガラリと変わった溪斎英泉が描くところの独特の美人である。やや大きめの顔に、つり上がった切れ長の目と少し空いた受け口の表情をし、首をすぼめて背を丸めた「猫背猪首(ねこぜいくび)」という独自のスタイルだ。たんに愛らしく綺麗な女性ではなく、情念あふれる官能的な美人は、幕末の美意識を映し出すような怪しい雰囲気を漂わせている。(「浮世絵美人画の変遷」p101)

見慣れてくれば、官能性がわかってくるだろうか?

tkj.jp