読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

海津忠雄『レンブラントの聖書』(慶応義塾大学出版会 2005)

レンブラントはその画業全般にわたって新約旧約の聖書のエピソードを取り上げて自身の作品をつくりあげてきた。ただ、その作品の構成は聖書の記述に厳密に従ったものではなく、レンブラントが聖書と聖書をもとにした先行作品に取材して、独自に形づくりあげていった臨場感あふれるリアリズム的な世界観であった。レンブラントならではの聖書の世界。この作品世界を本書の著者海津忠雄は「レンブラントの聖書」と呼んで、いくつかの角度から跡づけてゆく。目を見張るような記述はないが、レンブラントの志向性が正しく示された著作ではあると思う。

レンブラントには聖書の挿絵を描くという意図はまったくない。彼は聖書の真意を表現しようとしたのである。聖書の真意を表現するためには、聖書の記述から逸脱しても意に介さないのである。そういうものをわれわれは「レンブラントの聖書」と呼ぶ。
(Ⅱ.旧約聖書新約聖書「放蕩息子の話」より)

なお、参考として掲載されている図版は鮮明ではあるが小さなモノクロームの図版なので、何らかの画集を参照したり想起したりしながら読める状況にあったほうがよい。

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【目次】
Ⅰ 序章
 レンブラントと聖書
Ⅱ 旧約聖書新約聖書
 アブラハムの話
 ヤコブのヨセフの話
 預言者の話
 ヴェロニカの話
 死者の復活の話
 放蕩息子の話
Ⅲ レンブラントの思想
 ファウストの話
 聖ヒエロニムスの話
レンブラント略年譜


【付箋箇所】
10, 18, 24, 36, 37, 51, 89, 100, 110, 118, 122, 160, 170, 

レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669


海津忠雄
1930 - 2009

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エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク『レンブラント』(訳:メアリー・モートン 木楽舎 2016)

本書はデジタル技術によってリマスタリングされた、オランダレンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)公認の高精細画像の作品約180点を収録した最新図録集。A4判変型で224ページ、本体定価2500円。かなりお買い得の作品集。収録図版はかなり明るく鮮明で画面の暗い部分に描かれているものの細部までしっかり識別できるし、画面全体の筆遣いがよく見える。解説文も最新の研究を取り入れて、様々な角度から画家の画業に迫っていてたいへん参考になる。版画や素描はほんの少し取り上げられるだけなので、油彩画中心のレンブラント像となっている。

 

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【目次】
謝辞
まえがき
本書について
名声と評価
レンブラントの名声
レンブラントはロシア人か
世界を変えた画家, レンブラント
人生か作品か
史料が語るレンブラント
少年時代
ライデン時代(1625年~1631年)
エッチング画家としてのレンブラント
指導者のレンブラント
ライデン時代の絵画
第一次アムステルダム時代(1631年~1635年)
肖像画
第一次アムステルダム時代の絵画
レンブラントキリスト教
受難をテーマとした未完成の連作版画
レンブラントルーベンス
大規模な歴史画(1634年~1635年)
第二次アムステルダム時代(1636年~1642年)
レンブラントと当時の芸術愛好家たち
1636年~1642年の絵画
夜警
第三次アムステルダム時代(1643年~1658年)
レンブラントの伝説
生涯探求を続ける芸術家
家庭生活の混乱
コレクターとしてのレンブラント
レンブラントの破産
第三次アムステルダム時代の絵画
第四次アムステルダム時代(1643年~1658年)
第四次アムステルダム時代の絵画
レンブラントの晩年
エピローグ・1669年から現在までのレンブラント
黄ばんだニスの除去
損傷した絵画の復元
本物と複製の関係を巡る論争
参考文献

【付箋箇所】
14, 28, 53, 67, 80, 81, 126, 127, 128, 

レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669

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エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク
1938 - 

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『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社 2022)

歌人としてのデビューが1997年。それから25年、一貫して商業出版で短歌に携わってきた1968年生まれの現代口語歌人の集大成。収録歌数355首ときわめて寡作。そのわりに作風が重たいわけでもなく、作品ごとに大きな変化があるわけでもない。世界的には激動の25年といってもいい期間ではあるが、この歌人の歌には湾岸戦争リーマンショック東日本大震災もコロナパンデミックも存在しない。ごく身近な人間関係で生じた思いが日常的な言葉で少しアイロニカルに歌われているだけである。それで四半世紀にわたって現代の代表的歌人のひとりとして存在を示してきたことは立派ともいえるし、短歌界のひとつの時代の象徴なのであろう。この先10年20年とどう歌いつづけていくのか、読まれていくのかも興味があるところだ。

切り売りというよりむしろ人生のまるごと売りをしているつもり

※書籍で読んだ時よりも、左右社のウェブサイトで横書きの収録選歌を読んだほうが鮮烈なのは、歌の軽さに紙の単行本の体裁が追いつききれていないためであろう。たぶん文庫本になるともう少ししっくりくるはず。

sayusha.com


枡野浩一
1968 - 

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神戸芸術工科大学デザイン教育研究センター編『塩田千春/心が形になるとき ─美術と展示の現場2─』(新宿書房 2009)

塩田千春は、糸を張り巡らせることで創られた作品や大量の同一収集物による構成などの大きな規模のインスタレーションが印象的な、ベルリン在住、1971年生まれの現代美術家

本書は、2008年に行われた神戸芸術工科大学での公開特別講義に、作家へのインタビュー、それから100点ほどのモノクロームの作品図版と、講義開催年度の2008年に大阪ドイツ文化センター所長職にあったペトラ・マトゥシェによる塩田千春論を集めた著作。神戸芸術工科大学所属の教授陣による企画で、制作や展示の現場について読者により身近に感じてもらうために構成された珍しい作家紹介の書。

サニー・マンクの撮影になる作品や創作に関わる現場の写真は構図が優れているため大変魅力的だが、モノクロームであるために作品から受ける衝撃は少し減衰している。色彩と作品の規模感については作家自身のホームページで確認するほうが質量ともに充実しているが、ホームページの写真家と本書の写真家それぞれの作品を見る目の違いを比べてみることができるのも本書を作品集として鑑賞する場合には大きな魅力となっていると思う。

塩田千春の講義録では、売れなくて足掻いている時代についての回顧的言葉に励ましを受けた。囲いを外れて歩むことの自由と孤独を維持していく芸術家の卵時代からつづく表現にかける現実離れしたテンションの高さと異形さが心に響く。作品の評価が低いままだったら心理的にも経済的にもつらいばかりであるのが芸術家。それでも傍から見れば異様にも見える表現の可能性を拓いていこうと試行錯誤する姿には(笑ってしまう部分もあるが)感動的なものがある。表現したいという沈静化できない思いがあるならば、納得できるところまでやってみるほかないし、だれでもやってみる権利はとりあえず持っているというところを実践的に示してくれる作家であるだろうと思った。最初期の泥水をかぶりつづけるビデオ作品「bathroom」やエナメル塗料をかぶるパフォーマンス作品「絵になること」など、自分が家族であったなら激怒する可能性の極めて高い創作について、その時の本人や制作前後の逃げ場のない状況などについて語ってくれているところなどからは、多少顰蹙を買うかもしれないことでもある程度自己責任でやってみてもいいんじゃないかと、自分のなかにある意識的無意識的な縛りからの自由へ向かうことへの無言の励ましを勝手に感じてしまうようなところがあった。変わった感じの刺激を受けたという感触が残った。

 

www.shinjuku-shobo.co.jp

 

【付箋箇所】
62, 68, 76, 80, 88, 132, 134, 139

塩田千春
1972 - 

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本人ホームページ:

www.chiharu-shiota.com

 

モーリス・メーテルランク『ペレアスとメリザンド』(原著 1892, 訳:杉本秀太郎 岩波文庫 1988)

ドビュッシー作曲でオペラ化もされたメーテルリンクの戯曲。水の精を思わせるメリザンドは何者かから逃げて森の中の泉の傍らで泣いているところを、狩りの途中で道に迷った寡の王族ゴローに出会い見初められ、結婚相手となり城に住まうようになるが、その城には繊細で美麗なゴローの弟ペレアスがいて、話をしながら同じ時間を共有していくなかで次第に相思うようになってしまうことで、最終的には二人が死に一人が傷つく悲劇となる。

オペラ台本は原作とほぼ変わらない分量と内容で創られているが、オペラだと2時間40分、戯曲だと100ページ足らずで、作品を鑑賞する場合はオペラのほうが滑らかな印象がある(私はピエール・ブーレーズ版のDVDで視聴)。原作はト書きがほぼなく、場面転換のあいだを自分の想像でつないでいく必要があるので、説明が少し足りないと思う部分が出てくるためであるのと、メリザンドの正体が本質的には何も語られていないままストーリー展開しているところに、この劇の世界はどうなっているのだろうという疑問がずっと最後まで続くところに原因があると思う。すべてを説明することなく謎と齟齬を抱えたままなところが神秘的で人を惹き付けているというところがある反面、消化不良という印象も残ってしまう。メリザンドが死ぬ代わりにゴローとの間の娘が生まれたところで劇が終わるのも、続きがあるような含みを持たせているようでなんだか後を引く。多くの芸術家(とりわけ音楽家)たちが本作にインスピレーションを受けて自身の創作に向かうのも、鑑賞者に解釈する欲望を生み出すメーテルリンクの神秘的な象徴劇の作風に因るのだろう。

作品が謎めいていて読み終えても興味が尽きないというのは、同じ作者の『青い鳥』にも共通しているように思えるところだが、どちらの作品も訳者解説くらいではどうにも腑に落ちない。メーテルリンクの短所というよりは象徴的深みに関わることのような気がしているので興味が失せるというよりも調査してみたいという気を起させるのだが、探してみてもメーテルリンク作品の本格的な読解に関する書籍が見当たらないところは物足りなく感じている。

ちなみに岩波文庫の『ペレアスとメリザンド』は対訳本で、フランス語原作もついているが、わたしは訳文のほうしか読めていない。また、カルロス・シュワップ(と表記されているがおそらくカルロス・シュヴァーベ)による挿絵がモノクロームではあるが数多く収録されていて、こちらは戯曲に美しい色どりを添えていて、画家の象徴的画風も作品世界にマッチしているところが素晴らしい。オペラとも違った美しさ(とりわけ風景と男性登場人物、そして平面による構成美)が味わえる。

 

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モーリス・メーテルリンク
1862 - 1949

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杉本秀太郎
1931 - 2015

Charles Schwabe
カルロス・シュヴァーベ
1866 - 1926

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ジャン・スタロバンスキー『道化のような芸術家の肖像』(原著 1970, 訳:大岡信 新潮社 叢書<創造の小径> 1975)

日常を離れた驚異的で奇跡的な技を見せる見世物小屋の異質な価値基準の世界の主役たる軽業師と道化の志向性は近代の画家や詩人や小説家たちの意識と相似形をなしている。現にあるものを嘲笑するイロニーが作り出す意味の空無の時空間が、観衆の普段の振舞いを根底から激しく揺さぶりながら、己自身の存在をも掘りくずしてしまう危うさの位置を占めているのが見世物的な側面を持つ近代的表現者としての宿命であることを様々な表現者の作品を取り上げながら著者ジャン・スタロバンスキーが克明に浮かび上がらせている著作。

画家としてはドーミエ、カロ、ロートレックシャガールドガピカソ、スーラ、ルオー、アンソール、ルドン、クレー、デュビュッフェなど、詩人・作家としてはテオドール・ド・バンヴィルマラルメボードレール、ラフォルグ、ゴーチエ、アポリネールリルケなどを引きながら、道化的存在と振舞いの意義を重層的に描き上げている。

創造と破壊のどちらかといえば、日常性を創り上げているものを破壊する側にある論考である。

生と死の境、意味と無意味の境に接し、生と意味の側の世界の確かさを支える固定した堅苦しい価値の枠組みに反してみせる。現実の重みからの逃避の陶酔を演出し、精神の自由をつかのま味わわせるのではあるが、その自由における高揚は急速に冷えて虚無の世界を引き寄せることにもなってしまう。

イロニーに根ざす自由は、人間の虚しさにみちた光景の上方に超越すると称して、かえっておのれ自身を空っぽに、虚しいものにしてしまう。純粋な領域への飛翔は、内実のない抽象のうちに、みずからを見失ってしまうのである。

(「軽やかさの幻惑または道化の勝利」より)

栄光と奇怪さ、グロリアとグロテスクが不可分である領域での活動とならざるを得ない職種の人々がいる。若さのエネルギーがあるうちは闇よりも光の部分が優越するが、精力の減退とともに闇の部分は勝る傾向にある。それでも意味の欠如や存在の無償性を呼び寄せながら通過する経験のうちにこそ稀にみる意味作用の発現の場が開かれるということを、本書は示しているように思う。


【目次】
しかめ面する分身
再び天才が発掘されたのか?
軽やかさの幻惑または道化の勝利
アンドロギュヌスからファム・ファタール
欲望をそそる肉体と陵辱された肉体
悲劇的道化の誕生
卑賤しき救い主たち
導者と亡者

【付箋箇所】
10, 15, 22, 39, 40, 53, 59, 67, 69, 80, 113, 115, 131, 137, 142, 163

ジャン・スタロバンスキー
1920 - 2019

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大岡信
1931 - 2017

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西垣通編『AI・ロボットと共存の倫理』(岩波書店 2022)

AI(人工知能)とロボットとの付き合い方について、現代の日本の状況や世界的状況をを踏まえて、多分野の研究者6人が集うことで成立した新時代の倫理観をめぐる論文集。

全体的な印象として倫理は経済効率とは相性がよくないということがすべての人の発言から感じとれるのだが、経済効率的には正しくないが心地よく持続可能な道について気にかけ考える必要性を問うているところに本書の狙いはあるのだろう。

技術の発展を推進しつつ弱肉強食の資本主義の論理の先に予想される展開とは別のありようについて先端的知性がそれぞれ検討しているところが見られる。基本的には幅広い共生を可能にするコモンズの世界への誘導が基調路線となっているようだ。

 

各論考の傾向は以下のような感じ。

西垣通
 開放系である機械と閉鎖系である生命の異なる系での情報の姿について

河島茂生
 メディア研究。「ヒトは、メディアと一体となって考える」。文字から「人間=機械」複合系の世界へ

ドミニク・チェン
 対象に関するケアの観点について

富山健
 人間と共存可能な自律ロボットについて

広井良典
 持続可能な福祉社会のビジョンについて

江間有沙
 人工知能のリスクと倫理実装について

全般的に優等生的で、基本的前提としている世界の限界の破滅的局面や無慈悲な歴史的展開、悲観的ケースのリアリズムは感じ取れないが、それは本書の情報発信の志向とは異なるだけで、全体的にはそれほど気にならない。

 

読み通した後で思ったことなど:

有限な資源のもとでの経済的競争社会において、個々の人間の権利を守る法は許容可能範囲のギリギリのところで改定されていくような気がするが、厳しいなかでも希望がより多く持てる世界を期待せずにはいられない。

ありうべき道を提示しつづけるのが知識人たちの努めであり、感覚的なレベルに過ぎないにせよ自分の立場から吟味する姿勢を持ち続け安易な回答に靡かないようにするのが生活者としての努めであろう。

1972年にローマクラブが『成長の限界』を発表してから半世紀が過ぎて、事態はより深刻さを増しながら進展している。危機の状態にあっても人はよりよく生きつづけようとしていくほかはない。

 

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【目次】
生命的機械の登場──まえがきにかえて……西垣通

■第一部|人間と機械
第一章 人間と機械の連続と非連続、そして倫理──観察の複数性とシステムのありようとの関係をもとに……河島茂生
第二章 人新世におけるAI・ロボット……西垣通

■第二部|ロボットとケア
第三章 非規範的な倫理生成の技術に向けて……ドミニク・チェン
第四章 ロボットの倫理……富山健

■第三部|AIと社会
第五章 AIを活用した未来構想と地球倫理……広井良典
第六章 AI倫理の実装をめぐる課題……江間有沙

【付箋箇所】
10, 25, 26, 28, 42, 50, 55, 69, 74, 75, 93, 94, 144, 156, 159, 166, 169, 174, 180, 181, 204

西垣通
1948 -

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河島茂生

ja.wikipedia.org

ドミニク・チェン
1981 -

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富山健
1949 -

webcatplus.nii.ac.jp

広井良典
1961 - 

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江間有沙

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