読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アルベルト・ジャコメッティ『エクリ』(原著 1990, 訳:矢内原伊作+宇佐見英治+吉田加南子 みすず書房 1994, 2017)

ジャコメッティ存命中に発表されたすべての文章を収めた書物。

ジャコメッティ愛好家必読の書物ではあるが、芸術家本人が書いたテクストだからといって絵画や彫刻と同じレベルの表現とはとらえないほうが無難。あくまで芸術家本人が綴ったところの参考資料と思っておいたほうがよい。ただし、巻末の7篇の対談は、創作活動の日常を脚色することなく語っているという点で、ジャコメッティの独自性がより顕著に表れているので興味深い。異なる対談相手に対して同じようなことを語っている点でも信頼がおける。
※矢内原以外の対談者に対してはモデルの眼差しをとらえることが最重要であると言っているのに対し、本書を含め矢内原がモデルの時は鼻の立体性と画布の平面性との折り合いに拘泥しているところに異質感が生じた。
※表現方法と表現者の適正によって表現できる範囲が違ってくるということについても残酷なまでに表現されているところを感じ取るのは結構つらい体験ではある。

ほかに見どころ読みどころっとしては、
・他書にはほとんど見られないデッサンの作品が数多く収録されていること
・詩作が無修正で収められていること
・対談相手が違ってもジャコメッティの志向性が変わらず明確に言語化されていること
といったところがある。

その他では、訳者のひとりである吉田加南子のあとがきがミシェル・レリスやジャック・デュパンのまえがきをも超える文章として最後に鎮座しているところに感動を覚えた。

※基本的に全篇飛ばさずに読んだほうがよい書物である

 

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【目次】
読者に
語るジャコメッティ、書くジャコメッティ  ミシェル・レリス
終わりなきエクリチュール  ジャック・デュパン
ジャコメッティ年譜

[既刊の文章]
物いわぬ動くオブジェ
七つの空間の詩
褐色のカーテン
灰となった草
昨日、動く砂は
実験的研究
アンケートへの回答
一九三四年の対話
私は私の彫刻については間接にしか語れない
アンリ・ローランス
ジャック・カロについて
夢・スフィンクス楼・Tの死
ピエール・マティスへの手紙(一)
作品の補足リスト
ピエール・マティスへの手紙(二)
盲人が夜の中に手をさしのべる……
物いわぬ動くオブジェ(新版)
灰色、褐色、黒……
一九二〇年五月
ドラン
私の現実
自転車と彫刻
ディドロとファルコネは考えが同じだった
私の芸術の意図
『脚』について
今日絵についてどのように語ればよいのか?
ジョルジュ・ブラック
終わりなきパリ
模写についてのノート
エドリカ教授の訃に接し
そんなものはみな大したことでない

[手帖と紙葉] 
子供時代の思い出
「芸術」のための…
魂と肉体は…
ぼくは今カフェに…
ぼくは同じ道を…
全身像と二つの…
彫像の作り方
彫刻
「すべての事物の…
純粋芸術
明日 一九二五年…
ぼくは散歩して…
「いかなる統御も…
光の中の金の…
水がきしる
帰ってきたら…
ぼくには哲学は…
あらゆるものの…
ぼくは、オブジェ…
問題
女が息子を…
決してフォルムの…
男と女
私達は、裸
生まれたのだ
オブジェか
批評、否
おれはすべての
リュリュ、リュリュ!
まだ九時だ
アルゴ船の乗組員
ぼくはもうこわく…
やさしい
すべてが夢の…
鐘が鳴る
批評、否
おぞましい
曖昧さが…
髪、剃った
三次元にわたる…
ブルトンは詩に
またAEARについて
無理だ、できない
もっと先まで…
ふう、ふう
いささかも調整…
女に対しての…
ウ、ア
フォルムの精神
ぼくは自分の…
すべてを歪曲する…
過去に作られた…
書くべきことは…
外の世界と…
あ、いたた!
実物を写して…
だが終わりという…
書く、何頁も…
ここで括弧に…
一覧表。何の…
奇妙な生
ぼくは絵や…
骨と化して…
空間を現実に…
ぼく、君
風景! 風景
ユーラシア
[G]多面体の…
テリアードのための…
ひと月のうちに…
これらのちょっと…
瞬間
ローマに旅行…
ぼくにはもう…
言う? 何を?
この部屋で…
まったく常軌を…
来週の初めに…
ディエゴがそのうち…
起きたら…
もし仕事をしたいなら…
ぼくは自分が…
このコワールの…
明日の朝は…
ぼくの手は…
そのことが起きて…
ぼくは状況を…
ぼくは今晩チューリヒを…
A. I. OU

[対話]
ジョルジュ・シャルボニエとの対話
ゴットハルト・イエドリカ博士との対話
矢内原伊作との対話
ピエール・シュネーデルとの対話
アンドレ・パリノとの対話
ピエール・デュマイエとの対話
ダヴィッド・シルヴェステルとの対話

原題・初出一覧
あとがき

 


アルベルト・ジャコメッティ
1901 - 1966

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矢内原伊作
1918 - 1989

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宇佐見英治
1918 - 2002

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吉田加南子
1948 - 

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石田英敬+東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(ゲンロン 2019)

世界規模のネットワークに常時接続されている世界を生きる現在の人間の在りようを現代記号論の立場から分析しより良き未来に繋げることを意図してなされた総計13時間を超える講義対談録。

基本的に東大教養学部時代の師弟コンビの再編となる高級コミュニケーションで、一般的読者は後れを取ることを覚悟しないといけないが、それぞれに思い描いている未来像はどうあれ、現状分析までは確実に傾聴に値する学知を提供してくれている。

グーテンベルクの書字複製アナログメディアの世界から20世紀初頭の電気科学的複製メディア社会に移行し、20世紀後半さらに世界規模のデジタル複製社会に推移する状況を言論をもって跡づける行為は傾聴に値する。

とりわけp44-45の時代推移図と、p229の心と身体の対応図にまとめられた思想の現在点は記憶するに値する。

20世紀初頭のフロイトフッサールソシュールの業績に敬意を表しながら、21世紀のデジタルネットワーク環境における人間のあり方を脳科学の最先端の知見とともに人文学的に思考しよりよく対応しようとする意志が強く伝わってくるなかで、政治経済的なアピールに関しては有効な手段を打ち出せずタンタル批評家に終わってしまっている感は否めない。

世界的ネットワーク社会においては、生産者(労働者)としては被抑圧者(マゾヒスト)であるのは言うまでもなく、消費者としてまでも抑圧者(サディスト)から被抑圧者(マゾヒスト)に成り下がってしまっている状況を取り上げて、開放の道が基本的に閉ざされている状況を示しているにとどまっている。

安心安全を最優先とした社会を普遍的ネットワークの存在によって実現しようとしつつある21世紀初頭の現状を、記号と情報の学問によって捉えなおし、最新の情報通信環境を意識的に生きなおすことで自由を確立しなおそうと提言しようとしているのが本書の意図のひとつであるとは思うのだが、決して前途が開けているわけではない。最悪の事態を考え、現状から未来にかけての可能性についても楽観視せず、批判的に思考しながら尚且つニヒリズムに落ち込まない方向を堅持することが必要なのだと思う(ただ、全体としてエリート層の言説なので、そこから溺れてしまっていると思うものは―反発まではしないが―ちょっとシラケざるを得ず、ニヒリズムの克服は別経路で納得するものが必要になってくると思う)。

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【目次】
はじめに 
講義 石田英敬東浩紀
 第1講義 記号論脳科学
 第2講義 フロイトへの回帰
 第3講義 書き込みの体制(アウフシュライベジステーム)2000
補論 石田英敬 4つの追伸 ハイパーコントロール社会について
おわりに

【付箋箇所】
9, 11, 19, 20, 22, 24, 25, 28, 29, 31, 33, 38, 40, 42, 45, 47, 48, 89, 96, 109, 142, 164, 167, 172, 180, 194, 205, 206, 221, 234, 250, 255, 262, 263, 266, 272, 279, 281, 306, 309, 313, 316, 318, 325, 327, 331, 364, 365, 380, 387, 392, 400, 410, 415, 417, 422, 428, 433, 435, 437, 

石田英敬
1953 - 

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東浩紀
1971 - 

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ヒド・フックストラ編著 嘉門安雄監訳『画集レンブラント聖書  旧約篇』(原著 1982, 学習研究社 1984)『画集レンブラント聖書  新約篇』(原著 1980, 学習研究社 1982)

聖書に題材をとったレンブラントの作品を見ていると、対象となっている聖書の記述を確認したくなる気持ちにさせられる場合が多くあるのではないだろうか? レンブラントの聖書の場面は、いわゆる聖画一般のイメージとは異なり、描かれている人物たちは貧しく卑俗で到底聖性があるようには見えない。光と闇の画家レンブラントならではの聖化の表現は一貫してあるものの、人物造形としてはイエスやマリアやヨセフは貧民層の表現を超えていない。レンブラントが描くところのイエスはいかがわしさと隣り合わせの呪術者兼革命家(最近の言葉でいえばインフルエンサー)と変わりないし、マリアは母性的な田舎娘であり、時を経ては老婆にすぎず、イエスの父ヨセフは弟子もいないような貧乏な大工職人でしかない。一般的に流布している聖なる家族のイメージや、イエスの奇蹟を含めた言行は、地上の卑俗な一人物のものとして描ききられている。その卑俗さ加減が聖書の記述とどの程度の整合性があるかというところが気になり、聖書の該当箇所を読んでみたりもするのだが、厳密な描写は聖書にはなく、レンブラントの表現もあながち間違ってはいないというか、神の子である確信を持てないような卑小な存在としてのイエスに対する同時代人としての感覚としてはむしろ正しいものではないかという思いが湧いてくる。正しいのかもしれないが、妙に人を苛立たせ、モヤモヤ感を残した状態で勝手に次の次元へと進んでしまう人。聖人というよりは異質で異能な人、常に一緒にいるのは困難だけれど煩くて且つ無視しがたい隣人。キリスト教信者でなくても、まあなんて人なのだろうという俗なる関心を持たせてくれるのがレンブラントの聖書の存在価値であると思う。

幼児イエスに乳を与える聖母マリア、裸足で歩くヨセフ、神殿から商人を追い払う激高の人イエス、ラザロを復活させる妖しいイエスとゾンビのようなラザロ、十字架の受難での痛々しいイエス、復活した後で帽子をかぶり鋤を持った農民風のイエス。聖人として崇められるよりも、より近くにいる存在として迫って来て、考え感じることをいつの時代になっても要請する人々の姿がそこにある。

新約聖書のエピソードと同様に、旧約の人々も世俗的で日常と地続きの感覚のうちに見事に再構成されて作品の中で息づき、見る者の心を動かしてくる。

制作年代や制作手法の違いから表現の方向性に違いは出てくるものの、レンブラントならではの人間観察と近代レアリスム的な表現手法による独特の質量感には共通するものがあるのであろう。その作品が、今なお精神世界の尽きせぬ源泉となっている新旧聖書の文言とともに提示されていることは、日本に住む異教の者たちにとって興味深くも大変貴重な学びの場となっている。宗教的関心や学問的関心からでなく、芸術的なものについての好奇心から異世界であり異文化であるものに触れられるのは喜ばしいことではないだろうか。


レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669

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海津忠雄『レンブラントの聖書』(慶応義塾大学出版会 2005)

レンブラントはその画業全般にわたって新約旧約の聖書のエピソードを取り上げて自身の作品をつくりあげてきた。ただ、その作品の構成は聖書の記述に厳密に従ったものではなく、レンブラントが聖書と聖書をもとにした先行作品に取材して、独自に形づくりあげていった臨場感あふれるリアリズム的な世界観であった。レンブラントならではの聖書の世界。この作品世界を本書の著者海津忠雄は「レンブラントの聖書」と呼んで、いくつかの角度から跡づけてゆく。目を見張るような記述はないが、レンブラントの志向性が正しく示された著作ではあると思う。

レンブラントには聖書の挿絵を描くという意図はまったくない。彼は聖書の真意を表現しようとしたのである。聖書の真意を表現するためには、聖書の記述から逸脱しても意に介さないのである。そういうものをわれわれは「レンブラントの聖書」と呼ぶ。
(Ⅱ.旧約聖書新約聖書「放蕩息子の話」より)

なお、参考として掲載されている図版は鮮明ではあるが小さなモノクロームの図版なので、何らかの画集を参照したり想起したりしながら読める状況にあったほうがよい。

www.keio-up.co.jp


【目次】
Ⅰ 序章
 レンブラントと聖書
Ⅱ 旧約聖書新約聖書
 アブラハムの話
 ヤコブのヨセフの話
 預言者の話
 ヴェロニカの話
 死者の復活の話
 放蕩息子の話
Ⅲ レンブラントの思想
 ファウストの話
 聖ヒエロニムスの話
レンブラント略年譜


【付箋箇所】
10, 18, 24, 36, 37, 51, 89, 100, 110, 118, 122, 160, 170, 

レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669


海津忠雄
1930 - 2009

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エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク『レンブラント』(訳:メアリー・モートン 木楽舎 2016)

本書はデジタル技術によってリマスタリングされた、オランダレンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)公認の高精細画像の作品約180点を収録した最新図録集。A4判変型で224ページ、本体定価2500円。かなりお買い得の作品集。収録図版はかなり明るく鮮明で画面の暗い部分に描かれているものの細部までしっかり識別できるし、画面全体の筆遣いがよく見える。解説文も最新の研究を取り入れて、様々な角度から画家の画業に迫っていてたいへん参考になる。版画や素描はほんの少し取り上げられるだけなので、油彩画中心のレンブラント像となっている。

 

www.kirakusha.com


【目次】
謝辞
まえがき
本書について
名声と評価
レンブラントの名声
レンブラントはロシア人か
世界を変えた画家, レンブラント
人生か作品か
史料が語るレンブラント
少年時代
ライデン時代(1625年~1631年)
エッチング画家としてのレンブラント
指導者のレンブラント
ライデン時代の絵画
第一次アムステルダム時代(1631年~1635年)
肖像画
第一次アムステルダム時代の絵画
レンブラントキリスト教
受難をテーマとした未完成の連作版画
レンブラントルーベンス
大規模な歴史画(1634年~1635年)
第二次アムステルダム時代(1636年~1642年)
レンブラントと当時の芸術愛好家たち
1636年~1642年の絵画
夜警
第三次アムステルダム時代(1643年~1658年)
レンブラントの伝説
生涯探求を続ける芸術家
家庭生活の混乱
コレクターとしてのレンブラント
レンブラントの破産
第三次アムステルダム時代の絵画
第四次アムステルダム時代(1643年~1658年)
第四次アムステルダム時代の絵画
レンブラントの晩年
エピローグ・1669年から現在までのレンブラント
黄ばんだニスの除去
損傷した絵画の復元
本物と複製の関係を巡る論争
参考文献

【付箋箇所】
14, 28, 53, 67, 80, 81, 126, 127, 128, 

レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669

ja.wikipedia.org

エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク
1938 - 

en.wikipedia.org

 

『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社 2022)

歌人としてのデビューが1997年。それから25年、一貫して商業出版で短歌に携わってきた1968年生まれの現代口語歌人の集大成。収録歌数355首ときわめて寡作。そのわりに作風が重たいわけでもなく、作品ごとに大きな変化があるわけでもない。世界的には激動の25年といってもいい期間ではあるが、この歌人の歌には湾岸戦争リーマンショック東日本大震災もコロナパンデミックも存在しない。ごく身近な人間関係で生じた思いが日常的な言葉で少しアイロニカルに歌われているだけである。それで四半世紀にわたって現代の代表的歌人のひとりとして存在を示してきたことは立派ともいえるし、短歌界のひとつの時代の象徴なのであろう。この先10年20年とどう歌いつづけていくのか、読まれていくのかも興味があるところだ。

切り売りというよりむしろ人生のまるごと売りをしているつもり

※書籍で読んだ時よりも、左右社のウェブサイトで横書きの収録選歌を読んだほうが鮮烈なのは、歌の軽さに紙の単行本の体裁が追いつききれていないためであろう。たぶん文庫本になるともう少ししっくりくるはず。

sayusha.com


枡野浩一
1968 - 

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神戸芸術工科大学デザイン教育研究センター編『塩田千春/心が形になるとき ─美術と展示の現場2─』(新宿書房 2009)

塩田千春は、糸を張り巡らせることで創られた作品や大量の同一収集物による構成などの大きな規模のインスタレーションが印象的な、ベルリン在住、1971年生まれの現代美術家

本書は、2008年に行われた神戸芸術工科大学での公開特別講義に、作家へのインタビュー、それから100点ほどのモノクロームの作品図版と、講義開催年度の2008年に大阪ドイツ文化センター所長職にあったペトラ・マトゥシェによる塩田千春論を集めた著作。神戸芸術工科大学所属の教授陣による企画で、制作や展示の現場について読者により身近に感じてもらうために構成された珍しい作家紹介の書。

サニー・マンクの撮影になる作品や創作に関わる現場の写真は構図が優れているため大変魅力的だが、モノクロームであるために作品から受ける衝撃は少し減衰している。色彩と作品の規模感については作家自身のホームページで確認するほうが質量ともに充実しているが、ホームページの写真家と本書の写真家それぞれの作品を見る目の違いを比べてみることができるのも本書を作品集として鑑賞する場合には大きな魅力となっていると思う。

塩田千春の講義録では、売れなくて足掻いている時代についての回顧的言葉に励ましを受けた。囲いを外れて歩むことの自由と孤独を維持していく芸術家の卵時代からつづく表現にかける現実離れしたテンションの高さと異形さが心に響く。作品の評価が低いままだったら心理的にも経済的にもつらいばかりであるのが芸術家。それでも傍から見れば異様にも見える表現の可能性を拓いていこうと試行錯誤する姿には(笑ってしまう部分もあるが)感動的なものがある。表現したいという沈静化できない思いがあるならば、納得できるところまでやってみるほかないし、だれでもやってみる権利はとりあえず持っているというところを実践的に示してくれる作家であるだろうと思った。最初期の泥水をかぶりつづけるビデオ作品「bathroom」やエナメル塗料をかぶるパフォーマンス作品「絵になること」など、自分が家族であったなら激怒する可能性の極めて高い創作について、その時の本人や制作前後の逃げ場のない状況などについて語ってくれているところなどからは、多少顰蹙を買うかもしれないことでもある程度自己責任でやってみてもいいんじゃないかと、自分のなかにある意識的無意識的な縛りからの自由へ向かうことへの無言の励ましを勝手に感じてしまうようなところがあった。変わった感じの刺激を受けたという感触が残った。

 

www.shinjuku-shobo.co.jp

 

【付箋箇所】
62, 68, 76, 80, 88, 132, 134, 139

塩田千春
1972 - 

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本人ホームページ:

www.chiharu-shiota.com