読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アントワーヌ・テラス『ポール・デルヴォー 増補新版(シュルレアリスムと画家叢書3 骰子の7の目)』(原著 1972, 與謝野文子訳 河出書房新社 1974, 2006 )

ポール・デルヴォーの絵画世界は、それに触れた著述家にそれぞれの詩的世界を夢想させる自由を与えているようで、画集の解説文という位置づけにある文章であっても、作品の美術史上の位置づけや意味づけよりも、鑑賞者が受け止めるであろう印象のひとつのケースを極端に推し進めてデルヴォーの作品世界のひとつのありようを提示するという、詩的描写に傾いた小説のような表現行為を続々と生み出し、出版界もその傾向を許して、デルヴォー的世界を増幅させようとしている。

デルヴォーの絵画の背景を知ろうとするならば、デルヴォー自身の発言がもっとも有益で、本書には画家へのインタビューから得られた貴重な証言も記載されている。キリコとマグリットから多大な影響とインスピレーションを受けて自身の独自世界を描きつづけたということは、のちにシュルレアリスムの詩人作家たちに評価される以前にシュルレアリスム的方向性を単独で推し進めた作家であるということの証であり、シュルレアリスムの綱領におさまりきらない独特な作品創造観を持った作家であることの証でもある。

私にとってデルヴォーが独特なのは、デルヴォーの描く世界が夢のようであり、完全な無音の世界であるというところにある。たとえ、嵐の海の岸辺で荒波に洗われ声を上げているような者がいても(「水の国のニンフ」)、ピアノの伴奏に合わせて今にも歌曲を歌いださんばかりの歌姫がいようとも(「スピッツナー館」)、デルヴォーの絵画の世界に次の瞬間は訪れない。時折あらわれる男たちには次の瞬間があらわれる必然性を感じ取れもするのだが、デルヴォーの描く女たちには動作の途中にある者でさえも時間が過ぎていくことの必然性が見えず、展開のないまま時が停止してしまっているような世界を生み出している。

デルヴォーの世界では、男たちは考える、女たちは物思いにふけっているが、思考の本体は別世界に生きているようで、描かれているそのままの世界の身体はもぬけの殻で、そこにはまるでいないようだ。男の身体と男の像がある場合、生命あるものと人工的な造形物の違いが明らかなのに、女の身体と女の像がある場合、それらの間に決定的な違いがあるようには見えなくなる。すべてが着色された塑像、精巧な人形ということであってもなにも不思議でない世界が展開されている。

本書において、男の身体と男の塑像があるケースは「ピグマリオン」で、左端に塑像のモデルともいえそうな人物は描かれるサイズが小さいこともあってか現実寄りの生々しさを持っている。また、右端の黒ずくめの着衣をまとった歩行する男性は、裸体の女性二人に対してあくまで現実的存在として描かれている。

女の身体と女の塑像があるケースについてははっきりと認められるものがないのだが、「散歩する婦人たちと学者」の左端中央の彫刻と散歩する婦人が検討に値する。また、生身の女の身体はあらわれていないのだが、作品「寺院」に描かれた大理石彫刻の女性頭部は衝撃を与える。

絵だけ見ていると知らず知らずのうちに衝撃を受けるばかりというのがデルヴォーという稀有な作家の特徴なのだろう。人はその特異性に対して、称賛と防御の意味を込めて自らの物語を紡ぎださずにはいられないのではないだろうか。見るだけでは胸騒ぎが収まらないゆえに次の一手を求めるのだが、その次の一手が評釈ではなく、あくまで物語の再創造という一択であるというところにデルヴォーの唯一無二の存在感があるように思う。

ポール・エリュアールデルヴォーに寄せた詩『流謫――ポール・デルヴォーに』の詩行を論考の推進役として章題に掲げ、内容的にはマリー・ローランサンなどの詩に頼りながら、作品の詩的描写に終始しているところは、文学ではない美術の領域にあっては評価しがたいところではあろうが、ひとつの書物としては小説でも読んでいるような感じでたいへん面白かった。

一人の画家に起因した作品ということであれば、ミシェル・ビュトールポール・デルヴォーの絵の中の物語』があるが、ビュトールデルヴォーに向き合うのと同じように、本画集の図版と解説文に向き合い、デルヴォーの作品からはじまる半現実的想像世界を、自分のものとして精彩を与え、拡げていくことが大切なのではないかと言われたような感じのする書作であった。

 

www.kawade.co.jp

 

参考:

uho360.hatenablog.com

 

ポール・デルヴォー
1897 - 1994
アントワーヌ・テラス
1928 - 2013
與謝野文子
1947 -