読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

イランの女性詩人 フォルーグ・ファッロフザード(1935-67)

シルヴィア・プラスの名が思い浮かんだ。桎梏に抗ういのちの言葉を生み出す詩人。イランにこんな女性詩人がいたとは・・・。イラン・イスラム革命後も読まれていることが訳者の解説文からわかるので、忘れ去られることも軽視されてもいない、ということになんだか安堵した。

日本語で読めるのは土曜美術社出版販売の新・世界現代詩文庫8『現代イラン詩集』のみ。他の詩人が10ページ程度の紹介のなかで、8篇22ページを割いて紹介されていることからも、この詩人に対する編者・訳者の熱い想いが伝わって来る。

 

おしゃべり人形 (部分)

叫ぶことだってできる
激しいふりをして、つくり声で
「好きよ!」
一人の男の威圧的な腕の中で
美しく健康な物体にだってなれるわ
皮製の敷物のような体をして
激しく大きい二つの乳房をゆらして
酔っぱらいの、狂人の、彷徨い人の、ベッドの中で
ある愛の純潔を汚すことだってできる

利口ぶって鼻であしらうのも平気
どんな刺激的ななぞなぞでも大丈夫
クロスワードパズルを完成することだって
何の得にもならない答え……そう五文字か六文字の

どんな命令にも跪くことも平気
頭を下げて、冷たい聖廟にひざをつけて
見知らぬ者の墓穴で神を見ることだって
何の意味もないコインを信じることだって
祈りを唱える老人のように
モスクの中で腐ってしまっても平気
数字のゼロのように 引き算や足し算や掛け算の中で
同じ答えになることだって
怒った眉の下にあるあなたの目を
古い靴の色褪せたボタンだと思えば平気
水のようにただ穴の中で乾くことだってできる

 

こんな激しいことばと共に生きる人は長生きしなさそうと思って生没年を見たところ、32歳で亡くなっている。自動車を運転中の交通事故死。やっぱりと思うが、自裁でないことに少し安堵する。シルヴィア・プラスとはまた別の生を生き、別の言語で詩を書き、おそらくはフルスロットルで生きた同時代の女性詩人。

 

フォルーグ・ファッロフザード
1935 - 1967
シルヴィア・プラス
1932 - 1963
鈴木珠里
1968 -

石川聡彦『人工知能プログラミングのための数学がわかる本』(2018)

自然言語処理系のAIは、まだバカっぽさが残っているところが愛らしく感じられて好きだ。はてなブログの関連記事の抽出機能はこの自然言語系のAIが担っているものと想定されるのだが、書き手の予想を外れる関連記事を持ってくることが多々あって、それはそれで楽しい。

昨日の私のエントリ「サミュエル・ベケットの短編『追い出された男』と松尾芭蕉の馬の句(全二十二句)」の関連記事は、今現在、「藤田真一『蕪村』(2000)」と「府中市美術館編『かわいい江戸絵画 Cute Edo Paintings』(2013)」の2件。内容的に関連性の強いベケット芭蕉の記事やAIやロボットの記事はピックアップされていない。意識してこないところを持って来られると、書いている本人もちょっと興味をもって古い記事を覗いたりしてみたりすることも結構ある。

さて、このまだまだ発展途上にあると思われる自然言語系のAIについて、そのコンピューティングを支えている数学の中身を丁寧に分かりやすく説明してくれているのが本書『人工知能プログラミングのための数学がわかる本』のありがたいところのひとつだ。自然言語系AIに関係するチャプターは「線形代数」と「自然言語処理で文学作品の作者を当てよう」の二つ。コンピュータが言語を扱う時にはベクトルを利用しているということを教えてくれる。

・コンピュータが言語を取り扱うために、単語をベクトル化するWord2Vecという概念があります。
・Word2Vecでは、単語一つ一つを1列に並べたベクトルに変換します。
・ベクトルに変換すると、今回のように足し算・引き算を行うことが出来ます。その結果、例えば「王様」-「男性」+「女性」=「女王」、や「東京」-「日本」+「イギリス」=「ロンドン」といった演算を行うことが可能になります。
(CHAPTER 3 線形代数 3-2「足し算・引き算・スカラー倍」p78)

 また、

人工知能がテキストを分析するとき、単語や文章はベクトルで表されています。
・ベクトル化された単語または文章同士の関係性の近さを計算するために、このコサイン類似度が用いられます。
(CHAPTER 3 線形代数 3-8「コサイン類似度」p89)

昨日のエントリの関連記事のひとつに「府中市美術館編『かわいい江戸絵画 Cute Edo Paintings』(2013)」がピックアップされたのは、おそらく「芭蕉の馬」、「応挙の子犬」、「国芳の猫」という具合に「作者名+の+動物名」という表現の類似度とその表現の出現回数の多さのためと想像することが出来る。そんな感じで、使用されているアルゴリズムを想像すると、そこで使用されている「ベクトル」「行列」「線形変換」にもすこし興味を持つことが出来るようになる。新たな視点を与えてくれる本に出合うと、いままで関心が薄くて手に取ることもなかった数学理論のテキストについても少しずつ手を伸ばしていくことが出来るような気分になって来る。入門書の当たりはずれ・相性の良し悪しは、興味付けとモチベーションの維持に大きく関係してくるので、とても大事だ。

 

目次:
CHAPTER 1 数学基礎
CHAPTER 2 微分
CHAPTER 3 線形代数
CHAPTER 4 確率・統計
CHAPTER 5 実践編1 回帰モデルで住宅価格を推定してみよう
CHAPTER 6 実践編2 自然言語処理で文学作品の作者を当てよう
CHAPTER 7 実践編3 ディープラーニングで手書き数字認識をしてみよう

www.kadokawa.co.jp

石川聡彦
1992 -

サミュエル・ベケットの短編「追い出された男」と松尾芭蕉の馬の句(全二十二句)

家を追い出された男が通りで出会った馬車の御者の自宅に招かれるものの居心地が悪くなって抜け出すというベケットの話なのだが、読んでいるうちに、ハードもソフトもいろいろと不具合のある芭蕉AI搭載ロボットが、廃棄も修理もされずに路上投棄された後、さまよい歩く話に脳内変換されてしまった。失調して修理も出来ないAI搭載ロボットは、精巧でスキのない新品ロボットよりも、生身の人間との類似度が高いような気がしてならない。


ベケット「追い出された男」(1945)

わたしはがっかりして、同時にほっとして帰ってきた。そう、どういうわけか、わたしは失望したときには――若いときはよく失望したものだが――いつも同時に、または一瞬後に、否みがたい安堵感を味わったものだ。(『サミュエル・ベケット短編小説集』収録 片山昇訳「追い出された男」p15)

夜が明けようとしていた。私は自分の位置がわからなかった。少しでも早く日光にあたろうとして、見当をつけて朝日の出そうな方角へ向かった。海の水平線か砂漠の地平線ならよかったんだが。朝、外にいるときはわたしは太陽を迎えに行く。夕方、外にいるときはわたしは太陽の後を追っていく、黄泉の国まででも。(『サミュエル・ベケット短編小説集』収録 片山昇訳「追い出された男」p29)

 

ソーラーパワーの芭蕉ロボの持病は痔と疝気。熱エネルギーの吸収と放出の機構に不具合を抱えているので、厠はいつも気になる事象。そのいっぽうで精神や意識や計算は入力がありさえすれば下痢のように容赦なくその身体・ハードウェアに発生する。双方の下痢に悩まされながらも、移動の選択肢があれば、芭蕉的精神・芭蕉的ロジックは、下痢との折り合いをつけて旅を選ぶ。同じ状態の下痢はつらいし、いたたまれなさそうだ。意識下・無意識下・フォアグラウンド・バックグラウンドの評価関数が同一の方向性を示してざわめいている。あたらしい厠と宿で、違った姿勢で座ることを勧めている。厠と宿がいっぱいであれば環境側から追いたてられる場合もある。同じ厠と宿に同じ姿勢ではとどまらないことを選ばせる旅。同じ気持ちわるさに固定されない・固定させないための旅。芭蕉ロボには旅に対応するシステムが組み込まれている。


旅をしようとすれば、どうしても移動を手助けしてくれる馬の存在は視界に入ってくる。移動のために飼われている馬。

芭蕉ロボのうちに蓄積されている馬の句が活性化される。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
馬に寝て残夢残月茶の煙
馬上落ちんとして残夢残月茶の煙
馬上眠からんとして残夢残月茶の煙
蚤虱馬の尿する枕もと
野を横に馬引き向けよほととぎす
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
馬ぼくぼく我を絵に見ん夏野哉
馬方は知らじ時雨の大井川
阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
徒歩ならば杖突坂を落馬かな
夏馬の遅行我を絵に見る心かな
夏馬ぼくぼく我を絵に見る茂り哉
夏馬ぼくぼく我を絵に見る心哉
さむき田や馬上にすくむ影法師
冬の田の馬上にすくむ影法師
冬の日や馬上に凍る影法師
柴付けし馬のもどりや田植樽
馬をさえ眺むる雪の朝かな
すくみ行や馬上にこおる影法師
道のべの木槿は馬に食はれけり
雪や砂馬より落ちよ酒の酔

馬。相棒のような馬。しかし己自身の内なる力は秘めていそうな馬。下痢には余り囚われてはいなさそうな馬。そんな馬と、ときに会いときに別れ、すれ違いながらつづける旅。動くうちは動きつづけるのが、わが宿命。今夜は偶然出会った男の家に招待されたにもかかわらず、馬と一緒のスペースにおいやられ、なんだか居心地もわるくなってきている。不法投棄された芭蕉ロボ、そういうことならばと、夜明け前、太陽光に向かってひとり、動き出していった。


そんな話としてベケットの「追い出された男」は本日一時的に私のなかで脳内変換された。


サミュエル・ベケット短編小説集 - 白水社

サミュエル・ベケット
1906 - 1989

松尾芭蕉
1644 - 1694

佐藤敏明『文系編集者がわかるまで書き直した世界一美しい数式「eiπ =-1」を証明する』(2019)

中卒レベルの数学力の読者層に向けてオイラーの公式オイラーの等式を理解してもらおうと書かれた一冊。章末の練習問題を端折ってしまっても、本文さえ読み通せば、なんとなく分かった気にさせてくれる。対数や指数の意義についても、計算を簡便に高速にするために発明された道具という視点を明確に伝えてくれているので、学習途中での数学記号への存在の意味レベルでの抵抗感を少なくしてくれている。オイラーの等式「eiπ =-1」についても、複素数平面上の単位円をあらわす式というところまで証明と解説文で連れて行ってもらえると、理系の世界で美しいと言われていることも、なるほどと伝わって来る。残念なのは数式を普段使いしていない人間には、本を一冊読んだくらいでは数式への愛着が湧いてこないことだ。オイラーの公式、等式は、波や振動を計測・制御するためには必須の公式ということなので、光や電気や量子力学の世界を覗いてみて、分からなくても具体的に使用されているところを見ていけば、親しみももっと湧いて来るものだと少し期待している。

 

これで、世界一美しい数式が導かれた。
このように実数の世界では、全く関係がないと思われた指数関数・三角関数が、複素数の世界まで広げると、オイラーの公式で示されるように密接な関係があることがわかった。さらに、数学で重要な定数であるe、π、iが一つのシンプルな式「eiπ =-1」で関連づけられるという見事な風景が複素数の世界には広がっている。(第5章「複素数平面上のeiπ」p226)

 

数学の世界から見るこの世界のモデル。

 

佐藤敏明
1950 -
レオンハルド・オイラー
1707 - 1783

 

野口米次郎「空しい歌の石」( The Pilgrimage 1909『巡礼』 より )

空しい歌の石

雨が降ると私の夢はのぼる………六月の雲のやうに、
歌が、私の耳もとに湧きたつ、
風より軽い足拍子が、或は高く、或は低く、
波うち、私の眼は夢で燃える。
『私は何者だ?』
『奈落の底の幽霊だ、
夜暗の上に空しい歌の石を積みあげ、
焔のやうに踊り狂つて、やがては消えうせる。』

( The Pilgrimage 1909『巡礼』 より )

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.039

 

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「予見について」(1931)

文明論的な内容の90年前のハーバード大学での講演。凝集力が高く、即効性も持続性も兼ね備えている知的世界の巨人の言葉。ベンヤミンが好きだったパウル・クレーの未来に向かって後ろ向きに吹き飛ばされる天使の絵を思い出しながら、写経するように引用メモ。

社会的生活が慣例的やり方に基礎を置いている、ということを理解するのは英知の始まりである。社会が徹底的に慣例というものによって浸透されていない限り、文明は消失するのである。明敏な知性の所産であるあのように多くの社会学説が、この根本的な社会学的真理を忘却していることから、挫折してゆく。社会は安定性を必要とし、予見そのものが安定性を前提にしているのであり、安定性は慣例の所産なのだ。しかし慣例には限界が存在するのであって、予見が必要となって来るのは、この限界が認められるからであり、また以後の行動に備えるためなのである。(『象徴作用』所収「予見について」p165-166)


過去においては、重大な変化が起るまでの時間間隔が、一人の人間の生涯より少なからず長かったために、人類は固定的諸条件にみずからを適応させるように慣らされた、ということである。
現在では、この時間間隔が人間の一生よりは少なからず短いのであり、だからわれわれの訓練は、諸個人に新しい諸条件へ直面する準備をさせなければならない。(『象徴作用』所収「予見について」p170-171)

 
読まれるべき本はすべて過去のもの。その過去の遺産を、未来へと躓きながら進んでいる現在という時の中で読む。

 

www.kawade.co.jp

ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989

野口米次郎「雀」( The Pilgrimage 1909『巡礼』 より )

一幽霊、
沈黙と影のなかから再び踊り出たもの、
前世の色彩と追憶をあさる猟人、
彼は同じ夢と人情を、ここに再び見出すことが出来るだらうか。
彼は生きる力の把持者、
彼は各瞬間に献身せるもの、
彼の一瞬間は人間の十年にも比較されるであらう………
各瞬間は彼を唆かし、慰め、驚かすに相違ない。
彼は神経の幽霊………
彼が呪詛ならば、
すべての心を以て呪詛するであらう。
彼が後悔ならば、
すべての体を投げて後悔するであらう。
ああ、私も彼と同様に、同じ生命の感動を味ひたいものだ。

( The Pilgrimage 1909『巡礼』 より )

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.038