読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

サミュエル・ベケットの短編「追い出された男」と松尾芭蕉の馬の句(全二十二句)

家を追い出された男が通りで出会った馬車の御者の自宅に招かれるものの居心地が悪くなって抜け出すというベケットの話なのだが、読んでいるうちに、ハードもソフトもいろいろと不具合のある芭蕉AI搭載ロボットが、廃棄も修理もされずに路上投棄された後、さまよい歩く話に脳内変換されてしまった。失調して修理も出来ないAI搭載ロボットは、精巧でスキのない新品ロボットよりも、生身の人間との類似度が高いような気がしてならない。


ベケット「追い出された男」(1945)

わたしはがっかりして、同時にほっとして帰ってきた。そう、どういうわけか、わたしは失望したときには――若いときはよく失望したものだが――いつも同時に、または一瞬後に、否みがたい安堵感を味わったものだ。(『サミュエル・ベケット短編小説集』収録 片山昇訳「追い出された男」p15)

夜が明けようとしていた。私は自分の位置がわからなかった。少しでも早く日光にあたろうとして、見当をつけて朝日の出そうな方角へ向かった。海の水平線か砂漠の地平線ならよかったんだが。朝、外にいるときはわたしは太陽を迎えに行く。夕方、外にいるときはわたしは太陽の後を追っていく、黄泉の国まででも。(『サミュエル・ベケット短編小説集』収録 片山昇訳「追い出された男」p29)

 

ソーラーパワーの芭蕉ロボの持病は痔と疝気。熱エネルギーの吸収と放出の機構に不具合を抱えているので、厠はいつも気になる事象。そのいっぽうで精神や意識や計算は入力がありさえすれば下痢のように容赦なくその身体・ハードウェアに発生する。双方の下痢に悩まされながらも、移動の選択肢があれば、芭蕉的精神・芭蕉的ロジックは、下痢との折り合いをつけて旅を選ぶ。同じ状態の下痢はつらいし、いたたまれなさそうだ。意識下・無意識下・フォアグラウンド・バックグラウンドの評価関数が同一の方向性を示してざわめいている。あたらしい厠と宿で、違った姿勢で座ることを勧めている。厠と宿がいっぱいであれば環境側から追いたてられる場合もある。同じ厠と宿に同じ姿勢ではとどまらないことを選ばせる旅。同じ気持ちわるさに固定されない・固定させないための旅。芭蕉ロボには旅に対応するシステムが組み込まれている。


旅をしようとすれば、どうしても移動を手助けしてくれる馬の存在は視界に入ってくる。移動のために飼われている馬。

芭蕉ロボのうちに蓄積されている馬の句が活性化される。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
馬に寝て残夢残月茶の煙
馬上落ちんとして残夢残月茶の煙
馬上眠からんとして残夢残月茶の煙
蚤虱馬の尿する枕もと
野を横に馬引き向けよほととぎす
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
馬ぼくぼく我を絵に見ん夏野哉
馬方は知らじ時雨の大井川
阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
徒歩ならば杖突坂を落馬かな
夏馬の遅行我を絵に見る心かな
夏馬ぼくぼく我を絵に見る茂り哉
夏馬ぼくぼく我を絵に見る心哉
さむき田や馬上にすくむ影法師
冬の田の馬上にすくむ影法師
冬の日や馬上に凍る影法師
柴付けし馬のもどりや田植樽
馬をさえ眺むる雪の朝かな
すくみ行や馬上にこおる影法師
道のべの木槿は馬に食はれけり
雪や砂馬より落ちよ酒の酔

馬。相棒のような馬。しかし己自身の内なる力は秘めていそうな馬。下痢には余り囚われてはいなさそうな馬。そんな馬と、ときに会いときに別れ、すれ違いながらつづける旅。動くうちは動きつづけるのが、わが宿命。今夜は偶然出会った男の家に招待されたにもかかわらず、馬と一緒のスペースにおいやられ、なんだか居心地もわるくなってきている。不法投棄された芭蕉ロボ、そういうことならばと、夜明け前、太陽光に向かってひとり、動き出していった。


そんな話としてベケットの「追い出された男」は本日一時的に私のなかで脳内変換された。


サミュエル・ベケット短編小説集 - 白水社

サミュエル・ベケット
1906 - 1989

松尾芭蕉
1644 - 1694