2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
寝転がっている自分の存在が唐突に フローリングのゆかの上におちている塵と なんの違いもなく判別できなくなることもあると 同列併置の思念がはまって動かなくなった途端 ひどく動揺して気分まで悪くなった。 私が塵と変わらない。 おなじ家のゆかの上でお…
ヨハン・ペーター・ヘーベルはドイツ語方言であるアレマン語によって詩集を編んだ詩人。ハイデッガーは母なる言葉、国言語の重要性に眼を向ける思索者なので、ヘーベルのような民衆詩人を称揚する。本論文は、ヘーベルの活動を語りつつ、二〇世紀の機械化の…
べっしのちからはべっしされるしんようないとりで ただしいとはいいがたいせかいでごにょごにょする なんてせかいだとなげいたところせかいがなんてと ぎちぎちにといかえしてくることにかんしてはむしべ た な ぎ で る と し
でていかなくてはならないというわけではなく ぐったりしてねていてもとがめられずにほうち ちからなくくりかえすどうさをぎんみしてなお なにもおきそうにないとうしんだいのとりなし しおれてこそのあじもかさんされることはないでぐちなし、くちおしい
「野の道」は日本語訳本文8ページの小品。ハイデッガーの生まれた郊外の町の自然と小さな道についての随想、機械化の時代を生きる人間についての警告をふくんだ言葉である。本文より分量の多い解説と訳注は、内容が濃く、他のハイデッガー作品への導きもあ…
そんたくされるほどのちからやちいはなくて こんりんざいうきあがることないそうさくと はめをはずしたことばのゆうぎにきょうじて かそうせかいにはかくじつにあるあんしんを そうはげんじつかいにはもちこめずのろいと うらみをもつものをだっしょくすべく…
一八九四年ごろから構想されはじめた小説『ムッシュー・テストと劇場で』からはじまるヴァレリー唯一の連作短編集。死の直前までテキストに手を入れていたり、ムッシュー・テストにまつわる自筆の版画やデッサンを描いていたりと、作者にとってそうとう愛着…
なっているのはみみのおとじおんきょうほうしゃのしらべ におっているのはひふやねんまくにふれたたいきのべーる もとからひらいているあなはふさぎようなくあらわなまま しゅくさいのいろみをぬいたあんそくのときにみをしずめ なにものでもないなにものか…
よく引用されるヘルダーリン論四篇が収録されている。 「帰郷――近親者に寄す」(1943) 訳:手塚富雄「ヘルダーリンと詩の本質」(1936) 訳:斎藤信治『あたかも、祭の日の・・・・』(1939) 訳:土田貞夫、竹内豊治『追想』(1943) 訳:土田貞夫、竹内豊治 こと…
現代の日本には少なくとも三種類のpoetがいる。俳人、歌人、現代自由詩人。明治時代までであればこれに漢詩人も加わることになる。複数の専門領域に分けられる日本の詩。すみ分けて、多くの詩人が生息できることには良い面と悪い面があるだろう。その辺の事…
日本のドイツ文学者手塚富雄との対話を機縁にハイデッガーによって創作変奏された対話篇。手塚富雄の俤の濃い「日本の人」と「問う人」ハイデッガーの会話という形で、ことばについての実践的考察が展開される。ハイデッガーの教え子でもあった九鬼周造の「…