読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

小林一枝『『アラビアン・ナイト』の国の美術史 【増補版】イスラーム美術入門』(八坂書房 2004, 2011)

イスラムの世界では「礼拝の対象としての聖像・聖画さらに宗教儀礼用の聖具を持たない」。建築以外には宗教の美を持たないとされ、「神の創造行為につながる生物の造形表現」に対する禁忌の念が、イスラム美術といわれる表現の領域において独特の基底を形作っている。例外として発達した写本挿絵の世界は別にして、純イスラム的世界においての美的要素は、幾何学的或いは本草学的装飾のパターンがもっとも多く、そして強い。こうした紋様が中心の表現を担うに適したのが工芸の世界で、その装飾にあらわれる卓越した世界観が、現代を生きる我々にはもっとも直接的にうったえかけてくる。幻想味を帯び、エッジの効いた、整然とした無限感覚の世界観。
視覚優位の造形の世界以外に位置する文学的想像力の世界での事物の描写は、偶像忌避のイスラム的感覚というよりも、アラビア的なオリエント趣味が凝縮され、強調されている。本書にも数多く引用されている『千夜一夜物語』の魔人のいる驚異の世界。そしてこのイメージの増強において大きな働きをなしたのは西欧近代の挿絵画家であることは間違いない。文章がイメージ化映像化を誘っているとはいえ、実際に造形的イメージ化を行なっているのは西欧近代であり、多くの人々に影響を与えているのは西欧近代であるということが、本書を読むと感得できる。著者自身の意図は『千夜一夜物語』を軸にイスラム美術を紹介するところにあるのだが、この点についてはなかば成功し、なかば失敗しているような印象を受ける。表紙や章の扉絵に掲げられているのは、『アラビアン・ナイト』の挿絵画家エドマンド・デュラックなど、20世紀初頭のイギリスで流行した幻想的挿絵の世界観や表現方法で、必ずしもイスラムの表現法ではない。
まあ、そんなことをいわずに、実際にイスラム世界で産出された工芸品と装飾と建築とイスラム世界の外で増幅されたイメージ作品をともに見ていけばよいのだが、題名と中身の重点のズレが少し気になってしまう入門書であった。

www.yasakashobo.co.jp

 

目次:
序 章
第1章 ハールーン・アル・ラシードとバグダードの都 ― 初期イスラーム時代の宮殿建築
第2章 「黒檀の馬」とアラブの科学書 ― 紙と写本の文化史
第3章 アラジンと不思議なランプ ― イスラームの華、ガラス工芸とモスク・ランプ
第4章 真鍮の都と魔人の金属器 ― ソロモン王伝説と金属工芸
第5章 海のシンドバードの冒険 ― 東西交易の主力商品、 絹・香料・陶器
第6章 アフマッド王子と妖精パリ・バヌー ― 空飛ぶ絨毯とソロモン伝説
第7章 アラブの羽衣説話「バスラのハッサン」 ― ワークワーク伝説とイスラーム文様
第8章 カマル・ウッ・ザマーンとブドゥール姫との物 ― 満月と三日月の表象
増補:
第9章 狂恋の奴隷ガーニム・イブン・アイユーブの物語 ― 『アラビアン・ナイト』イメージと墓廟建築 
終 章