読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

復本一郎校注『鬼貫句選・独ごと』(岩波文庫 2010)と関悦史

「東の芭蕉,西の鬼貫」と並び称された江戸中期の俳人鬼貫の代表的発句と俳論を収めた文庫本。
「まことの外に俳諧なし」というのが鬼貫が貫いた俳道であった。

現代の俳人関悦史に
独楽澄むや《現実界(レエル)》のほかに俳句なし
という句がある。

《現実界(レエル)》というのは精神分析家のラカンが提唱した概念で、ありのままの世界というよりは、認識もコントロールもできないという意味でカントの「物自体」に近い。現象としては捉えられない世界なので「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」と言われた場合には、一気に難解性が増す。俳句は《現実界(レエル)》以外のなにものでもないということは、俳句は現象ではなく、イメージ(想像界)でもなく、言語によって分節構成された秩序(象徴界)でもないということで、俳句はたちまち捉えることはできないものとして身を隠してしまう。身を隠してしまうというよりも、存在者としてははじめから無くて、一句のなかにかろうじて立ち現れる無時間的な出来事としてしか存在しない。そのことを予感させるようにして取り合わせられたのが上五の「独楽澄むや」で、激しく動いているからこそ静止しているように見える事物の感覚を超えそうになる神秘性を喚起しているのだ。

関悦史の「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」と鬼貫の「まことの外に俳諧なし」。少し調べてみたところ誰も指摘はしていないようだが、このふたつはよく似ている。似ているというよりも、知性的で論理的な関悦史が先行者としての鬼貫に取材し転換引用した作品、鬼貫への挨拶なのだと思う。「独楽」と「独ごと」の表現上の類似性もそれを裏付けてくれているようだ。そう捉えると、たちまち鬼貫の「まことの外に俳諧なし」の「まこと」も、単なる真偽を超えたものとなり、不可能性に接した現代的な表現の問題へと接続することになる。古典といわれる作品が時代を超えて読み継がれるのは、こうした深淵を覗き込ませるような驚きの体験がそこかしこで持続的に発生しているからなのだろう。

鬼貫句私撰5句:
桃の木へ雀吐出す鬼瓦
骸骨のうへを粧(けはひ)て花見かな
秋風の吹わたりけり人の顔
水鳥のおもたく見えて浮にけり
水よりも氷の月はうるみけり

 

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【付箋箇所】
俳論部分:
120, 122, 128, 135, 137, 157, 159
解説:
244, 246

上島鬼貫
1661 - 1738

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復本一郎
1943 - 

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関悦史
1969 - 

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