読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

畠中哲夫『三好達治』(花神社 1979)

越前三国の地で三好達治の門下生であった詩人畠中哲夫による評論。三好達治自身の作品や生前実際にかわされたことばはもちろんのこと、同時代周辺の文学者たちの表現を多くとりこんで、詩人三好達治の存在がいかなるものであったかを、重層的に表現している。引用されている人物としては、伊藤信吉、河盛好蔵丸山薫小林秀雄北川冬彦河上徹太郎中野重治吉川幸次郎宇野千代中村光夫亀井勝一郎大岡信谷川俊太郎石川淳加藤周一桑原武夫篠田一士といったところが挙げられる。ボードレールやフランシス・ジャム、ファーブルなどフランス語の翻訳で生活を支えていたこともあって、仏文系の文学者との関係が強い。それにしてもすごい面々だ。
エピソードとしては、大学時代の下宿先でヴェルレーヌの『叡智』を原典フランス語で読んで泣いていたということ、またルナールの『博物誌』に強い影響を受けて短い詩をいくつもつくりあげていたということなどが印象に残った。人物評としては、義に厚く厳しさと優しさをあわせもちその上に内面に狂気を孕んでいたというのが大方の印象で、そのなかではつぎにあげる宇野千代三好達治評が人物と作品双方をもっとも鋭くとらえているような気がした。

「いつでも正気で端然としていて、節度を守っているようであったが、三好さんの内面はそれと反対で狂気で、節度を外し惑溺するに任せていたのではないだろうか。」「度を越すこと。控え目にすること。その両面が三好さんの高揚した詩になる」

定住し家庭生活を守ることが出来ず、旅をすみかとするほかなかった三好達治の人生は、その詩型にも影を落としていて、口語自由詩、文語調の作品、短歌俳句といった伝統的定型詩のあいだを時代時代で遍歴していっている。ただそれは、容易な移行ではなく、そのたびごと、ひとつひとつの作品が頂点となるような、決意のようなものが込められていて、晩年まで立ち止まることがない。それは魅力的であるとともに迫力があって、何度でも読み返すことが可能な運動の軌跡であった。本書『三好達治』は、身近にいた人物畠中哲夫が、そのことを愛をもって明かしてくれた見通しの良い著作。

【付箋箇所】
26, 31, 37, 44, 65, 70, 115, 119, 133, 163, 172, 178, 218, 228, 244, 248, 255, 262, 263


三好達治
1900 - 1964
畠中哲夫
1920 - 
    

アンドレ・ブルトン+アンドレ・マッソン『マルティニーク島 蛇使いの女』(原著 1948, 松本完治訳 エディション・イレーヌ 2015)

第二次世界大戦下のフランス、1940年6月ナチスドイツの侵攻によりパリが陥落したのち、ナチスの傀儡であるヴィシー政権が成立、危険な無政府主義者たちあるいは退廃芸術家と目されていたシュルレアリストたちは、アメリカへの亡命を余儀なくされた。本書はシュルレアリスム法皇といわれたアンドレ・ブルトンと、オートマティスムと幻視的表現で評価の高いアンドレ・マッソンが、ニューヨークへの亡命の途上に立ち寄った、当時はまだフランスの植民地であったカリブ海に浮かぶマルティニーク島で過ごした日々から生まれた、シュルレアリスムのイメージを多角的に捉えたアンソロジーブルトンとマッソンそれぞれの詩と対話、マッソンの挿画とブルトンの滞在記的な散文からなる本篇100ページに満たない小さな書物だが、ブルトンとマッソンそれぞれの特徴がよく出ているのが面白い。マッソンの感覚的芸術観と、ブルトンの思考優位の芸術観の対比は、本書においては衝突するようでいながら相乗効果を上げている。実際にブルトンとマッソンは袂を分かっていた時期も存在しているので、本書は危ういバランスの上に成立した貴重な共同作業の作品ともいえる。ブルトンには狷介なところがあり、対立やグループからの除名処分などのケースが頻繁に発生しているところなどは、いままであまりよく思っていなかった部分があるが、本書で語られるマルティニーク島の詩人エメ・セゼールの出会いとその後のアメリカの地でのエメ・セゼールの紹介活動などを知ると、自身が認めた芸術家に対してのブルトンによる心からの賛美の活動の凄さがいまさらながら分かりはじめた。

訳者松本完治による熱のこもった解説も手伝って、ブルトンにすこしだけ目が開いたような気がする。またマッソンやエメ・セゼールへの関心も出てきたので、火が消えないうちに次の一手を打てるよう準備したいと思った。

www.editions-irene.com

【付箋箇所】
23, 28, 29, 97, 113, 116


アンドレ・ブルトン
1896 - 1966
アンドレ・マッソン
1896 - 1987
エメ・セゼール
1913 - 2008
松本完治
1962 - 
    

三好達治『諷詠十二月』(新潮社 1942, 改訂版新潮文庫 1952, 講談社学術文庫 2016)

戦時下の昭和17年9月に刊行された「国民的詩人」三好達治の詩論集。本書では、戦時色が色濃く出ている試論であり、詩人自らの手によって削除入れ替えされる前の七月・八月を補遺として収録して、時代と三好達治自身の移り変わりも見わたせるように配慮されている。

三好達治は仏文科出身でボードレールの『巴里の憂鬱』の翻訳から出発した詩人で、自身の口語自由詩系の作品においては、詩作の師と仰ぐ萩原朔太郎の詩とともにフランスの近代詩から大きな影響を受けている。また別の側面として、吉川幸次郎とともに岩波新書で『新唐詩選』を刊行し、漢詩の世界を次世代にも拓き、自身の文語系の作品においては漢詩の読み下し文的体裁に新しい詩想を盛って他に類を見ない高度な達成を果たしている。

『諷詠十二月』は古代歌謡から明治の正岡子規、大正の萩原朔太郎高浜虚子、昭和の飯田蛇笏・石田波郷までの日本の詩歌の世界を紹介解説している詩論集で、そのなかでは漢詩の占める割合が非常に大きい、かなり特異な構成になっている。ただし、詩歌の鑑賞というものが「実は人間の心の歴史を読むことに外ならない」という主張からは、平安期から江戸期まで知識人階層には圧倒的に優勢な詩型であった漢詩を除いてしまうなら、日本人の「心の歴史」をたどるに際しては重大な欠落が発生するという三好達治の思いが読み取れるので、紹介される漢詩の多さにも違和感はない。時代的には和歌も能くする菅原道真漢詩の姿を取り上げるところからはじめ、唐宋詩が日本の詩歌に与えた影響と江戸期に最高の隆盛を迎えた日本漢詩の各時代の成果を広く取り上げ紹介していて、日本伝統の詩歌は海外から輸入された詩歌と共存することで繁栄し、心の向かう先も多様かつ深甚なものになっていることに、読者の目を向けさせるようになっている。漢詩を扱う部分の文体は一見硬いように見えるのだが、詩の持つリアリティに敏感に反応し読み解いていく手際は鮮やかで爽快感があるため、堅苦しさはなく感覚的古さも感じさせないところに魅力がある。

感懐、節序、名勝、別離、懐古、詠史等々漢詩には詩趣詩材の頗る豊富な別天地があって、わが国伝統の叙情詩歌――短歌長歌連歌俳諧等の外に立ちつつ、漢文儒学輸入以来の教養階級に好箇の詩的世界を提供し、以て直接間接我文学の詞藻を富ましめ情操を豊ならしめ、これに変化と抑揚と心性の強度と思想の奥ゆきとを与えた功績恩恵は、殆んど深甚にして量り知りがたいものがあろう。
(「十月」より)

漢詩が多く紹介されている月の文章は、やはり漢語が多く、文語的になりはするが、三好達治のなかのコスモポリタン的な感覚が滲んだ新しい昭和の時代の文章になっているような印象がある。

bookclub.kodansha.co.jp

【付箋箇所】
10, 22, 52, 114, 120, 126, 141, 162, 172, 176, 177, 196, 208, 209, 238, 274, 275 

目次:
小 序 ……  3
一 月 ……  9
二 月 …… 39
三 月 …… 69
四 月 …… 91
五 月 ……113
六 月 ……135
七 月 ……149
八 月 ……159
九 月 ……169
十 月 ……193
十一月 ……213
十二月 ……229
あとがき……247
補 遺 ……249
七 月 ……250
八 月 ……260

三好達治
1900 - 1964

参考:

uho360.hatenablog.com

    

アウグスティヌス『神の国 (ニ)』(服部英次郎・藤本雄三訳 岩波文庫 1982)

聖霊と天使の違いは何でしょう?

といった問いは、本書が扱うアウグスティヌスの議論にはない論点だが、『神の国』の第6巻-第10巻までの異教徒の哲学への批判を読むに際して事前に知っておいた方がよい情報であると、本書通読後に私は思った。
聖霊キリスト教の三位一体の第三の位格(ペルソナ)で、神のひとつの現われとして在るもので、創造されたものではない、始源から在る存在。それに対して天使は神によって創造された被造物。両者は質的に異なり、無限の差異があると考えておいた方がよいと思う。
始源としてある神の本質と、父なる神,子なるイエス・キリスト,父と子から永遠の愛として出る聖霊の、三一の構造をもとに思考される神と人間との中間領域にある被造物として存在しているダエモンギリシア語: δαίμων - daimōn; ラテン語:dæmon, daemon; 英語: daemon, daimon)と、受肉して言葉を発することで被造物としての人間に関わることが可能になった子としてイエス・キリストを巡っての神学的な論考がいくつかの角度からなされている『神の国』の第二パート。
創造者たる神と被造物としての人間との質的差異の中間領域で、無限の至福に正しく接続することを担うために受肉し神の言葉を繋いだイエス・キリストとの永遠のカップリングと、被造物側の限定された欲望に一時的に応えるだけの悪しき天使との至高者抜きのカップリングの差異が、五巻それぞれの視点から観察されていく。
そのなかでも緊張感に満ちているのは、論理展開にかなりの並行性を持つと認めつつ論じているプラトンの哲学と新プラトン主義を扱った第九巻と第十巻。哲学的に捉えられたダエモンと、始源の神には届かない悪しき天使たるダエモンの重ね合わせと、被造物の世界内での救いのなさの論証は、ひとつの世界観として完結していて、見事といってもよい感じがする。
私のような無神論懐疑論者に対する態度も明示されていて、敵視の対象とはなっていないながら、考慮の対象外であると示されたことにはすこし物足りなさが残った。


一読して、ソクラテスの生涯を左右したダエモン(ダイモン、デーモン)の言葉が、キリスト教的に評価の危うい言葉であると指摘されたことに、少なからず動揺を覚えた。
五世紀初頭に書かれたアウグスティヌスの著作ということで、古典作品として落ち着いて味わうという姿勢ももちろん大切で、解決済みであるかもしれないことをことさら騒ぎ立てることはないのだけれども、この異教の天使・デーモンの存在領域の話題は、ちゃんと読み込むべき資料のような印象を持った。

 

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所】
43, 59, 133, 35, 136, 171, 176, 196, 218, 251, 256, 265, 268, 269, 278, 287, 301, 337, 388, 410

 

アウグスティヌス
354 - 430 
服部英次郎
1905 - 1986
藤本雄三
1936 -

アウグスティヌス『神の国 (一)』(服部英次郎・藤本雄三訳 岩波文庫 1982)

アウグスティヌスの主著、正式名称『神の国について異教徒を駁する』全22巻のうちローマ陥落をめぐる保守勢力のキリスト教批判への対抗としてローマ帝国に内在していた問題をめぐって書かれた第1巻から第5巻までを収めている。神話の神々とその祭祀、ストア派の哲学とそのもとになされた政治が持つ限界を、キリスト教神の国の総合的視点から指摘しつつ、ローマの没落の原因を人間の弱さと愚かさにあったことを解き明かしていく。ラテン語教育で古典文芸に触れ、マニ教に熱狂した時期を経て、新プラトン主義に多くを学んだ時期を持った経歴のアウグスティヌスならではの広範で詳細な知識からなされる異教徒論駁は、敵側の素性をよく分析しているために、キリスト教国教化以前のローマについておおいに参考になる情報が含まれていて、いま読んでもなかなか面白く役に立つ。

神の国』全22巻は、西暦413年アウグスティヌス60歳から書きはじめられ、完結したのは426年の73歳の時、14年にわたる渾身の大作。敵をよく知り、十分に論じていく構えのゆるぎなさが感じとれたのがこの冒頭の5巻。老年に入ってからも腰を落ち着かせてじっくりひとつひとつ論考を積みあげていく姿勢は、驚異的で、尊敬に値する。読者側も変にあわてることなく、じっくり付き合っていけばいいのだと言外に言われているような気もした。

なお、岩波文庫第一分冊の解説は全22巻すべてを見通せるよう書かれているので、先入観なしに原典に当たりたい向きは、全巻通読後に振り返るようにして読んだ方がよい。

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所】
68, 78, 87, 93, 114, 117, 152, 273, 328, 373, 389, 398, 407, 433, 440, 456, 457, 467

アウグスティヌス
354 - 430 
服部英次郎
1905 - 1986
藤本雄三
1936 -

山本陽子『図像学入門 疑問符で読む日本美術』(勉誠出版 2015)

日本美術を鑑賞するのに役立つ一応学問的な情報を平易かつ仰々しくなく伝えてくれているのだが、ざっくばらんすぎてちょっと有難味にかけるところがある。図像を生み出した社会や文化全体と関連づけて解釈するために発展した研究分野である図像学(イコノロジー)の視点から、平安期から明治までの立体平面両方の日本美術を浚っていて、マンガやアニメなどのサブカルチャーと絡めながら気軽に楽しめるアプローチを提供してくれているのだが、著者の本気度がよくわからない。気軽に楽しめる鳥獣戯画のような作品が好みということがほんのり伝わってくる程度で、なにが一押しなのかもよくわからない。知識がある分、適当にあしらわれている感じが残ってしまうのが残念なつくりだと思うのだけれど、WEBで見たところ、すかした感じがちょうどいいという人もいるようで、日本美術需要層の多層構造があって、それはそれでよろこばしい。
ちなみに作者による最後の攻め手、「奥の手」として、美術品に対して「もしもこの中で、どれか一つだけくれると言ったら、あなたはどれを選びますか?」と問う下りがある。本書の著者の選択は示されていないのは、本心をおもてには出さないつくり上当然と思いながら、やはり明示してこないところは思わせぶりかなともおもいつつ、どうですかという感じで作者に向けて私のチョイスを提示してみるなら、奈良国立博物館所蔵「出山釈迦如来立像」。サイズも調査してどこに置くかも考えた。本物は室町時代の超貴重な作品だが、レプリカでも十分。

bunka.nii.ac.jp

 

画像データベースの画像


像高96.3cm。置きたい場所はトイレ。
高頻度で飲み屋の男子便所には親父の小言というのが貼ってあって、まあまあ納得する内容であるけれども、修行を失敗して限界情態を見せてくれるものの存在には敵わないだろう。酔っている時に冷まされるのはどうかともおもうけれど、失敗した直後の人との出会いは、まあいい感じで落ち込むことなく憐れんでくれる世界を現出してくれるとおもうので、釈迦ありがとうという、オレもう少し頑張ってみる、という気分にしてくれる、はず。

bensei.jp

【付箋箇所】

目次:
第1章 釈迦の生涯―仏像の基本
第2章 仏像の種類―4つのタイプ
第3章 曼茶羅―密教世界の地図
第4章 六道輪廻と浄土―人は死んだらどこへゆく?
第5章 神々のすがた
第6章 人のかたち―肖像と似絵
第7章 絵巻物―物語を絵にする
第8章 山水画花鳥画―神仏でも人でもないもの
第9章 浮世絵
第10章 西洋絵画と日本

山本陽子
1955 - 
    

沓掛良彦訳 エラスムス『痴愚神礼讃 ラテン語原典訳』(原著 1511, 中公文庫 2014)

意図することなく宗教改革の火付け役のひとつともなった作品。軽いようでいて、現状回復不能にしてしまう、パロディの掘り崩す力を、沓掛良彦によるラテン語原典からの新しい翻訳ですっきり楽しめる。五百年前の古典作品ではあるが、友人のトーマス・モアの『ユートピア』と同様、文芸作品としていまでも普通に読める。歴史的文書として研究の対象であるにとどまらず、一般読者層にも開かれた現役の風刺作品。痴愚の女神は万人に受け入れられているという皮肉が、まあそういうものだよねと痛みもなく受容できてしまう現在地は、問題といえば問題かもしれない。

『大使たち』で有名な画家ハンス・ホルバインの挿画と、100ページに迫る豊富な訳注も作品の味わいを深めてくれている。特に訳注は博覧強記のエラスムスが自作に取り込んだ古典作品への丁寧な案内にもなっていて、深掘りしたい人にも対応できている。

www.chuko.co.jp


デシデリウス・エラスムス
1466 - 1536
沓掛良彦
1941 -