読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

橋本治『ひらがな日本美術史6』(2004)

江戸幕末の美術。近代になって文化の色気が失われたと嘆く作者の、前近代までの日本美術への哀惜の情が色濃く出た巻。

 ある意味で、明治維新は来なくても、近代にならなくても、既にあるところでは、十分に「近代」が実現してしまっているということである。その「あるところ」が、特殊な知的階層であるならともかく、町人娯楽のど真ん中というところが、実はすごいところである。別に、国家が「近代化」を提唱しなくても、「あ、そいつは必要だ。そいつはおもしれェ」と思ったら、日本人はさっさと近代化を達成してしまうのである。その素地(したじ)があったればこそ、明治になって、日本は稀有なる近代化を達成したのだと思う。(その百一「横を向くもの」p165 太字は実際は傍点)

 

おそらく橋本治は近代がダメだといっているのではない。近代を実現する素地が幕末日本にあったにもかかわらず、日本美術の前近代と近代との間の断絶の具合が、取り返しようもなく痛ましいものだと訴えたいだけなのだと思う。

「近代以前の日本美術」のすごさは、必要な「へん」をきちんと把握して、それをちゃんと位置付けていたことである。それを可能にするメルティング・ポットを、近代以後の日本人は壊してしまった。惜しいを通り越して、愚かだと思う。(その百三「弥生的ではないもの」p200)

しかし、日本化するための弥生的なメルティング・ポットは近代化のはじめに守りきれる可能性のあるものであったかどうか、というところは本書を読む限りではわからない。メルティング・ポットの容量オーバーという表現もされているので、鎖国が不可能になった時点で、壊れざるを得なかった、もしくは機能不全になることを避けられなかったとみておいた方がいいのではないかとも思ってしまう。

近代化する日本は、それまでにあった「弥生的なメルティング・ポット」を、壊してしまうのである。あるいは、捨ててしまう。そうなる前に、いたって限定的な使い方をして、メルティング・ポットであることの意味をなくしてしまう。「そのメルティング・ポットで処理しきれないあまりにもも大量なものを入れすぎて、機能を停止させてしまった」と言った方がいいのかもしれない。容量オーバーで、既にあるポットの中に溶かし込めなくなったから、近代以後の日本で、「日本的」は「古臭いもの」に変わっていってしまう。だからこそ、「近代から後は違う」になるのである。(その百三「弥生的ではないもの」p197)

しかし現代において「日本的」は「古臭い」のか? 年を取ってきたからかもしれないが、江戸期の作品などとても好ましく思える。一周まわって古臭いと思う距離感から離れたのか、明治以降の外国人の視点のようにエキセントリックだと思っているに過ぎないのか、その辺ははっきりしないのだが……

 

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目次:
その九十  前近代的なもの 葛飾北斎の読本挿絵
その九十一 ドラマするもの 葛飾北斎筆「絵本隅田川両岸一覧」
その九十二 天っ晴れなもの 葛飾北斎筆「冨嶽三十六景」
その九十三 非日常的で日常的なもの 喜多川歌麿筆「歌まくら」
その九十四 不思議に我慢をしているもの 五渡亭国貞、渓斎英泉の錦絵
その九十五 うねるもの 歌川国芳筆「宮本武蔵の鯨退治」
その九十六 うねるもの續篇 歌川国芳筆「宮本武蔵の鯨退治」
その九十七 うねるもの残篇 歌川国芳筆「荷宝蔵壁のむだ書」他
その九十八 文化なもの 京都島原「角屋」
その九十九 遠いもの 小田野直武筆「不忍池図」
その百   前を向くもの向かないもの 渡辺崋山筆「鷹見泉石像」「市河米庵像」
その百一  横を向くもの 月岡芳年・落合芳幾筆「英名二十八衆句」と落合芳幾筆「真写月花乃姿絵」
その百二  芝居の質を変えたもの 歌川広重筆「東海道五拾三次」
その百三  弥生的ではないもの 縄文土器

橋本治
1948 - 2019