読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー「ヘーゲルの『経験』概念」(原書 1950 理想社ハイデッガー選集2 細谷貞雄 訳 1954) 『精神現象学』を評価するハイデッガー

ヘーゲルが『精神現象学』を一八〇七年にはじめて公表した際の表題「意識の経験の学」の「経験」にこだわって講義論述された論文。学問の世界で一般的に流通している「現象学」ではなくて「経験の学」こそ大事だという主張がある。

自己の知が対象に即応しないことを意識がその対象に照らして見出すときに、こうして対象そのものも吟味に耐えなくなる。いいかえれば、吟味の尺度は、それで度らるべきであったものが吟味に耐えないときに、みずから変化するのであり、吟味は知の吟味たるのみならず、その尺度の吟味でもあるのである。
意識がおのずからに、その知においてもその対象においても行使するこの弁証法的運動こそ、そこから意識にとって新しい真なる対象が発現するかぎり、経験と名づけられる当のものなのである。(p91-92)

 自壊しながら進んでいく。知と対象が変化して違った世界が開けてくるというのだろう。

 

ヘーゲルは、経験は意識がみずから自己の上に行使する運動である、と言っている。この行使は、絶対者の意志がその絶対性においてわれわれのもとに現存しようと意志する強力のはたらきである。絶対者がそれとして存在する意志は、経験という有様ではたらいている。(中略)意識の転向は、何か利己的なことをわれわれの方から絶対者にもちかけるのではない。それはわれわれをわれわれの本質の中へ立ち帰らせるのであり、そしてその本質は、絶対者のパルーシアの中に居合わせるということにあるのである。このことはわれわれにとっては、パルーシアを叙述するということを意味する。経験の叙述は経験の本質からして、それに帰属するものとして意志されているのである。(p173-174)

 パルーシアは到来あるいは臨在の意。絶対者は正しく吟味するはたらきをもつものといったところか。「経験は意識がみずから自己の上に行使する運動」というと外部がないような印象をもってしまうが、他者を含めて意識の対象となるものが外なる世界で、対象がなければ知もはたらかないし、経験もないのだろうと思う。

【付箋箇所】
91, 100, 112, 124, 173, 174

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
1770 - 1831
細谷貞雄
1920 - 1995