読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

佐々木健一『美学への招待 増補版』(中公新書 2004, 2019) デュシャンのレディーメイド以降の美の世界をちゃんとうろつきたい市民層のためのガイド

お金は持っていないので購入という究極の評価の場には参加できないし、技術もコンセプトもないため供給側に立つこともできないけれども、なんとなく美術は好きという人のために書かれた美についての現代的な理論書。

センスなんてものは自分に一番しっくりしているものがいいに決まっているのだが、それを他者といかに共有できるかということで、楽しみの幅が拡がったり、論争を起こして闘いになったりもする。そこを調整したり、論争のとりあえずの争点となるための規範としての美学という領域。

美学というのは、美に対しての一般的な理論を構築しようとするものなので、個々の作品をベースにした個々人の受容の話にはなかなか接続しづらく、個別作品に向き合ったときの単純で純粋で個人的な好い悪いの派閥争い的なものにもなる感覚とはすこし離れてしまうとことがあり、純粋な直接的鑑賞の印象とは別物の感覚を呼び起こそうとする圧力がある。通常の感覚受容に対しての差異を呼び起こすことで、現代美術作品となっているものに対して、参照軸として呼び出される比較的安定した美学的評価軸。

恒久的に必要でありそうでいて、すぐにも変化してしまいそうな美的評価軸。

美は、ないことはない。

美は、現時点で、これと固定できるものでもない。

今現在で、過去からの流れのなかで、美という括りの中に括られものを、過去の言説の蓄積の中に、後ろめたくなることなく埋め込んでいくこと。それを邪魔せず、促進していこうとする美学側からの発信を、今この場で受け止めておくことが本書に対する敬意になるのではないかと感じながら、とりあえずの読了の区切りをつけてみた。

近代美学は美と藝術の自律性を大原則とし、これらを道徳(ひとの生き方、行動の仕方)や宗教から切り離しました。そこから引き出されたのが、aesthetic(美的=鑑賞的)な態度という規範です。すなわち、藝術作品の鑑賞において、作品の世界から距離をとり、現実的にコミットしない、という態度をとることです。(中略)しかし、道徳を度外視した場合、感動を語ることは不可能です。われわれを感動させるのは、ひとの生き方、その決断の仕方、ふるまい方などを措いてほかにはないからです。
(第9章 美学の現在 「ものがたり論」p236 )

自立的に存在しているとしているといわれる美と、現実的鑑賞的心理学的な取り結びの中に個々人にあらわれてくる美的な現象との双方を分けつつ記述しようとする美学側からの、腑分けの意志を伝えたいのであろう論述なのではないかと捉えてみた。

 

美学への招待 増補版|新書|中央公論新社

 

【付箋箇所】
6, 20, 31, 39, 49, 82, 87, 92, 95, 107, 116, 127, 161, 182, 208, 225, 226, 232, 236, 260, 274, 277, 280, 281, 290, 296

 

目次:
まえがき
第1章 美学とは何だったのか
第2章 センスの話
第3章 カタカナのなかの美学
第4章 コピーの藝術
第5章 生のなかの藝術
第6章 藝術の身体性
第7章 しなやかな応答
第8章 あなたは現代派?それとも伝統派?
第9章 美学の現在
第10章 美の哲学
あとがき

 

佐々木健一
1943 -