読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ヘーゲルの本四冊】ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫全二冊 1994)、仲正昌樹『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書 2018)、長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書 1997)

ヘーゲル『歴史哲学講義』

『歴史哲学講義』はヘーゲル晩年の講義録。アジアにはじまり西欧ゲルマン民族のゲルマン世界にいたる発展史観は『美学講義』とも同じ流れ。二十一世紀に生きるアジアの端の日本人読者としては、すべてをはいそうですかと拝読するには抵抗を感じる部分もあるものの、西欧人から見た東洋人の特徴といったところには傾聴に値するものも多い。

東アジアから西アジアへの歴史の移行は、歴史上の外面的なつながりとしてあらわれるものではなく、わたしたちの概念のうちにあるものにすぎません。移行の原理は、ブラフマンのうちに見られた普遍的なものが、いまや意識の対象となり、人間にとって積極的な意味をもつところにあります。ブラフマンは、インド人の尊敬の対象となるものではなく、対象の形をとらない個人の状態ないし宗教感情にすぎず、具体的な生命力をむしろ消滅させるようなものです。が、この普遍的なものが対象としてあらわれるようになると、それは積極的な力をもち、人間を自由に解き放って、客観の側にある最高存在と対立するにいたらせる。そうした普遍がペルシャにあらわれるのが見られ、とともに、個人はこの普遍から身をひきはなすと同時に、この普遍と一体化しようとする。中国やインドの原理には、普遍から身をひきはなす場面がなく、あるのは、精神と自然の統一だけだった。しかし、いまだ自然のうちにある精神は、自然から自由になるという課題を負っているのです。
(上巻 第1部 東洋世界 第3篇 ペルシャ p284 )

ところで、空想的な広がりのなかで普遍的な一をとらえるのは、一般的にいって、東洋人の得意とするところです。すべての限定されたものを放逐する途方もない直観は、東洋人に固有のものですから。
(下巻 第3部 ローマ世界 第3篇 帝政の時代 p179) 

 

ブラフマンにも老子のタオにも強い関心を持っている私のうちに「具体的な生命力をむしろ消滅させるようなもの」への親和的傾向がないというようには言い切れない。穏やかなニヒリズムに対する憧れというように指摘されればそれも否定しきれない。先日のヤスパースも、今回のヘーゲルも、それでは自由も交流も足りないではないかと指摘したいのだろう。民族的な体質なら変えようもないとも思うが、とりあえず記憶にとめておくようにしたい。

www.iwanami.co.jp

 

www.iwanami.co.jp


仲正昌樹ヘーゲルを越えるヘーゲル

現代思想におけるヘーゲル思想の検討を広い視野で概観し、いろいろな思想家の仕事に導いてくれる、誘いの多い(呪詛の多いあとがき以外は)魅力的な一冊。印象的にはアウシュヴィッツの時代をユダヤ系ドイツ人として生きたアドルノベンヤミンへの導きが、ほかよりも強く感じられるが、今日の日本ではあまり著作にお目にかかれない渋めのコジェーヴとイポリットへの言及に興味を惹かれた。いずれも「人間の終焉」という視点を含む論考の紹介となっている。

コジェーヴの理解では、自分に固有の様式美に拘る「日本人」は、真の自己を探求したり、自由になろうとして他者と争ったり、自らの奉じる価値の普遍性を主張したりしない。自由と普遍性を追求する「歴史」や「人間性」とは無縁である。しかし、再動物化して、自らの身体的・自然的欲求に従っているアメリカ人とは違って、確立した「様式」に徹するという形で、自らの動物性を制御し、自己に規律(disciplines)を課しているように見える。
(第一章 「歴史の終わり」と「人間」 p63 )

これはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1989年)に先行する論考で、『ヘーゲル読解入門』の注記のスノビズム論の紹介。アメリカ的動物化の浸透により日本的スノビズムが消えかかっているように思えるときに、もう一度見直してみてもよい考えであると思う。

イポリットについてはヘーゲル研究における「自由」と「死」の重層化に関する指摘が興味深い。

イポリットが実際に「死の欲動」論を念頭に置いたかどうかは定かではないが、「自由」の極限が「死」であるという見方は、「快楽=緊張の解放」の極限が「死」であるという後期フロイトの思想に通じていることは確かである。そして、このことは「主体」、あるいは「人間」の「終焉」をめぐる現代思想の重要テーマと、深くかかわっている。
(第二章 「主」と「僕」の弁証法 p113 )

 

イポリットはドゥルーズデリダフーコーの先生でもあったのに日本ではあまりなじみがない。コジェーヴとは違ってオンデマンドではあるけれども岩波書店で主要著作が入手可能ではあるが、値段も分量もかなりハードルが高くてけっこう躊躇う。区立図書館にはないが近くの大学図書館にはあるらしい。貸出可能になるように外部聴講生にでもなってみようかと考えている。

www.iwanami.co.jp

 

www.iwanami.co.jp

bookclub.kodansha.co.jp

【付箋箇所】
44, 60, 63, 79, 113, 147, 151, 161, 164, 176, 178, 188, 205, 232

目次:
ヘーゲルの何が重要なのか?
第一章 「歴史の終わり」と「人間」
第二章 「主」と「僕」の弁証法
第三章 承認論と共同体
第四章 「歴史」を見る視点
あとがきに代えて 「理由」が喪失するとき

 

長谷川宏『新しいヘーゲル

ヘーゲルの面白さを新鮮な訳文で紹介し直してくれた訳者による導入書。ヘーゲル思想の概要を手際よく紹介した後に、現代でヘーゲルを読み直す意味合いも問いかけている。
ゲルマン民族プロテスタンティズム啓蒙思想、近代市民社会の優越を説いたヘーゲルのドイツが、二十世紀にナチズムを生みアウシュヴィッツを生んだ。そのあとの時代を生きるものは、ヘーゲルを一頂点とする西洋近代思想の問い返しをしなければならない。アドルノの『否定弁証法』などを引きながら、歴史と思想の問い返しへと注意を向けさせている。

宗教改革啓蒙思想フランス革命に近代の近代たるゆえんを見るヘーゲル哲学は、ナチズムよりも反ナチズムにつながる面がはるかに大きいとひとまずはいえる。
ならば、しかし、その近代文明のただなかで、近代文明を生きる多くの人びとがなにゆえに反近代の思想に強く惹かれたのかが問われねばならない。そして、近代精神ないし近代思想がナチズムへの抵抗の思想としてなにゆえ有効な力を発揮できなかったかが問われなければならない。
(第6章「ヘーゲル以後」p193 )

 

歴史も生活も止めて考えることはできないので、歩きながら、足元とちょっと先を見ながら、考えられることを考える。あるいは考えているだろう人のことばに接してみるようにする。

bookclub.kodansha.co.jp

 

【付箋箇所】
15, 63, 81, 83, 157, 193

目次:
第1章 ヘーゲルはむずかしいか?-弁証法入門
第2章 『精神現象学』-魂の遍歴
第3章 世界の全体像ー論理・自然・精神
第4章 人類の叡知ー芸術と宗教と学問と
第5章 近代とはどういう時代かー日本と西洋
第6章 ヘーゲル以後

ヘーゲル
1770 - 1831
仲正昌樹
1963 -
長谷川宏
1940 -

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

 

ペトラルカ『無知について』(原書 1371 岩波文庫 2010 )

イタリア・ルネサンスキリスト教的ユマニスムの主唱者ペトラルカが、同時代のスコラ文化圏のアリストテレス派知識人から受けた「善良だが無知」という批判に対する論駁の書。アリストテレスの自然哲学思想にも通じているペトラルカ自身の学識もやんわりと織り込みながら、人文主義の古典系列やキリスト教信仰の優位性を論敵をむやみに貶めることなく説いた、手紙形式の作品。桂冠詩人の側面の良さがあまり作品から感じられないところはすこし残念だが、人のよさを感じさせる文章にはやはり魅力があった。訳者による解説にも助けられ、ペトラルカの知識人としての大きさや重要さを感得できたことも収穫。

だれか人間が人間的努力によって万物を知りつくすなどということは、わたしには認められません。これが原因で、わたしは酷評されるのです。嫉妬の根はほかにあるとしても、おもてむきの原因は、わたしがアリストテレスを崇拝しないということです。しかし、わたしが崇拝すべき方はほかにいます。
(Ⅳ「古代作家をめぐって」 p108-109 )

信仰の対象は人によって違うし、立場が違う人が近づけば争いも起こりやすい状況にはなるだろうけれども、相手側の立論にも通じて良いところは良く認めがたいところは認めないという適当な距離の感覚を失わないほうがよい。情念に振り回されるようになると、知的に良い部分さえ消えてしまう。ペトラルカの『無知について』では、その距離感覚を味わうことができる。

www.iwanami.co.jp


【付箋箇所】
63, 64, 69, 108, 113, 121, 146, 147, 217

目次:
Ⅰ 序―新しい厄介な戦いを強いられて
Ⅱ 四人の若い知識人によるペトラルカ評とその動機
Ⅲ ペトラルカの自省と心境
Ⅳ 古代作家をめぐって
Ⅴ 古代作家とキリスト教信仰
Ⅵ 終章―ポオ河の流れにて

 

フランチェスコ・ペトラルカ
1304 - 1374
近藤恒一
1930 -

 

uho360.hatenablog.com

 

uho360.hatenablog.com

 

【カール・ヤスパース二冊】『哲学的信仰』(原書 1948, 理想社 1998)と『哲学入門』(原書 1949 新潮文庫 1954)

ヤスパースの講演録とラジオ講演録。宗教で説かれてきた神と区別するために、主観‐客観の分裂を超えた存在として「包括者」という概念をヤスパースは用いて存在を根底付けようとしているが、「超越者」、「神」といった言い換えも多く、特に『哲学入門』では一般的な神概念と区別がつかないものになっている。人間存在は包括者によって世界に埋め込まれた暗号を解くことを求められているという、一種神秘的な方向性も説かれていて、基本的に唯物的な傾向にある私のような人間とは別の世界を見ているのだなと確認することができた。実存主義の代表的な哲学者としてのヤスパース哲学史の優れた教師としてのヤスパースにはわりと関心があり、何冊かの書籍でお世話になっているのだが、神や世界の暗号解読というようなもにはあまり関心が向かない。ヤスパースにとっては根底に虚無を抱える悟性の成果である科学の知見にむしろとどまることを私は好んでいるらしい。
しかし、何故ヤスパースが包括者を強調するのかというところは、関心を持って読んだ。両講演ともに、包括者=神の存在がなければ、人間はニヒリズムに落ち込むほかはないというところに力点が置かれていた。ニヒリズム。根源の目的も意味もないというのは、なるほど、ニヒリズムに陥る環境の特性があるのかもしれない。だが、ニヒリズムでさえ目的も意味もないなら、存在することを嫌悪したり放棄したりする必要もないだろう。「生きていさえすればいいのよ」という太宰の『ヴィヨンの妻』のことばの肯定面を噛みしめながら生きていさえすればいいんだと思う。ニヒリスティックになることを警戒しながら、今現在存在しているということに眼を向けていけば十分だろう。無神論者にとって「み心が行われますように」という祈りを代替するのはそんな想いだ。

限界状況のうちには、無が現われるか、それともあらゆる消滅する世界存在に抗し、それを超越して、本来的に存在するものが感得されるようになるか、のいずれかであります。絶望でさえも、それが世界内で可能であるという事実によって、世界を超え出ることの指示者となるのであります。
(『哲学入門』第2講「哲学の根源」p32)

限界状況に現われるのは無ではなくて単に限界であろう。思惟し行為することによってその限界状況に変化が現れるなら、それは超越者がいるからではなく、世界の内容物の配置換えが起こっただけのことであろう。世界を超えて何かがあるというのは私にとっては想像外のことであるし、信仰外のことである。信仰ということばに関してなら、信仰は複数あるというのが私の信仰である。限界状況という暗号=シンボルも、その記号の配置によって身にまとう意味内容はそれぞれに異なってくる。

 

【付箋箇所(『哲学的信仰』)】
32, 39, 56, 61, 67, 72, 83, 88, 96, 100, 115, 154, 170173, 174, 178, 195, 197, 202, 233, 244,246, 252

 

『哲学的信仰』
目次:
第1講 哲学的信仰の概念
第2講 哲学的信仰の内容
第3講 人間
第4講 哲学と宗教
第5講 哲学と非哲学
第6講 未来の哲学

 

www.shinchosha.co.jp

『哲学入門』
目次:
第1講 哲学とは何ぞや
第2講 哲学の根源
第3講 包括者
第4講 神の思想
第5講 無制約的な要求
第6講 人間
第7講 世界
第8講 信仰と啓蒙
第9講 人類の歴史
第10講 哲学する人間の独立性
第11講 哲学的な生活態度
第12講 哲学の歴史
付 録 はじめて哲学を学ぶひとのために

 

カール・ヤスパース
1883 - 1969
林田新二
1929 -
草薙正夫
1900 - 1997

 

【日本近代の代表的詩人 三人三冊】堀口大學『消えがての虹』(1978, 86歳)、西脇順三郎『人類』(1979, 85歳)、『村山槐多詩集』(彌生書房 1974, 1919 享年24) 同年代生まれの八〇台の詩人と二〇台詩人を同時に読む。

他言語に訳されて日本の20世紀詩人にこういった人がいましたよと読んでもらいたいところまではいかないけれども、日本人であるならばちょっとは気にしておいてもいい詩人三名の三冊。

 

堀口大學は1925年出版の訳詩集『月下の一群』が何より重要。この訳詩集で近代フランス詩の魅力に引きずり込まれて人生狂ってっしまった人が沢山いただろうと思わずにはいられない。今はそんな訳詩集なんて無いから、うらやましいといえばうらやましい時代であったのだろう。ただ、その時代は今にくらべてとても貧しいし、国家間で戦うことが純粋に勇ましいことと思えていた風潮も、今から考えれば耐え難い窮屈さがありそうだ。多くは母恋の歌のなか、80台になって過去を思い返し、生活の資となる訳業を控え「かすみを食らって生きるが運命の、詩生の本然に立ちかえり」綴った作品の中に、以下のことばが見られるのは、かなり重くて貴重な伝言であるだろう。

生れるとすぐ 日清戦争
育ちざかりが 日露戦争

勝った 勝ったで兜の緒
締めてかかれば 心は狭い

国のためなら命も捨てる
うそのようだが 本当の話

そんな気持ちに僕まで成れた
うそのようだが 本気で成った

(「僕と明治」部分)

(小沢書店 1978, 86歳)

 

正直な回想が記憶に残り、何かしら抵抗を思いはじめるときのひとつの足場となってくれる。

萩原朔太郎の『月に吠える』が日本近代詩のはじめに位置し、西脇順三郎の『Ambarvalia あむばるわりあ』が現代口語詩のはじまりにあるといわれるほど重要な詩人。彼の詩作は、一般的な日本の評価枠を超えていて、何とも言えない味わいがある。「諧謔」を良しとする詩作の姿勢は、日本伝統(江戸伝統)の諧謔精神を引き継いでいるか否かの考証も含め、後世の読者に問いを投げかけている。深刻な詩ばかりでない詩の在りかたを示してくれたことは、後世の詩人にとっては大変貴重であるかもしれない。

最高の美は最高のカイギャクで
カイギャクでないものをカイギャクと
思念することは最高のカイギャクだ
まだそういうことにならない
予言に雪がふりつもつている
おもとの赤い実は現われていた
それはときならぬ神託の超自然の
美のカイギャクであった
(「パイ」部分)

筑摩書房 1979, 85歳)

ギリシャは風味付けで、芯にあるのは老荘のような印象もある。


村山槐多はどちらかといえば画家の業績のほうが有名。『尿する裸僧』など、日本的なフォーブの作品で良く取り上げられている。伝記的な記述を読んでみると、画のモデルに対するストーカーまがいの恋慕の情など、現代的な感覚からすれば到底容認できない激情に身を任せていたけれども、時代といえば時代の精神を体現していて、後世の者には貴重な体験談であるのかもしれない。絵でも詩でも時代にあわせて変奏できれば村山槐多を読んだり見たりする意味もあるだろうか。文字表現においては最も美的に昇華されている物語詩のようなジャンルが、人気もおもしろさもあるだろうか。「美少年サライノの首」とかは、ネットの検索でもよくヒットしている。私個人は絵を描くときのパッションにも通じているような詩のことばのほうが好きではあるが・・・

命はかすれながらつづく
それは色のけむりだ

それは薄いひくい紫の色階だ
それは消え去るもので
しょせんは一まばたきのまぼろし

その薄いけむりはつづく
その命にささへられて肉体は立つ

ピストルを打つの様に光をうつ
日の強さ

それを幽かにかすめて
薄い紫がつづく。
(「命」部分)

(彌生書房 1974,)

 

見えてしまった強烈な色彩と形態には、とりえず身を委ねるほかはない。が、それに取り込まれるがまま、翻弄されるがままだと、身は持たぬ。それでもいいのか、それがいいのか、それと格闘しつづけるのか、人や時代や状況によっていろいろ変わる。

 


堀口大學
1892 - 1981
西脇順三郎
1894 - 1982
村山槐多
1896 - 1919

 

樋口芳麻呂・後藤重郎校注『定家八代抄』(岩波文庫 全二冊)と村山修一『人物叢書 藤原定家』(吉川弘文館 1962)

『定家八代抄』は、定家54歳の時、1215年から翌1216年にかけて選歌編纂された『二四代和歌集』の収録歌に、訳と注をつけて文庫化した手頃な王朝秀歌アンソロジー。全1809首。『百人秀歌』(1235)、『百人一首』を生むにいたる前になされた、定家の批評眼が非常によく効いた編集の仕事。雨の日にしっとりひたるのに最適。

四季はめぐり、風吹き、雨が降り、雲がながれ、月が照る。花が咲き、鳥が鳴き、人は恋をして、涙し、儚くなる。世俗の活動が持つ意味を逆に考えさせてくれる優美で無時間的で非歴史的な観念の世界。先行作品を読み学び、和歌の様式におのれの言葉を充填していく積みかさねのなかで、色づき浮かび出て来るそれぞれの個性の華やぎ。なにもないようでいて、人の根底を流れている情動はつよく感じられる、最小の言葉たち。800年以上前の王朝貴族たちの狭くはあるが濃密な言葉の行き来の跡が、現代の生活にも匂いや彩りを与えてくれるというのは、なんだか不思議なことである。

 

0390 権中納言定頼
朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬瀬の網代

0412 寂蓮法師
野分せしをのの草臥荒れ果ててみ山に深きさ男鹿の声

1358 業平朝臣
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

1809 和泉式部
冥きより冥き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月

 

「朝ぼらけ」の歌を読んだとき、安岡章太郎の「海辺の光景」の最後の場面、最後の文章が浮かんできた。今回の読み手側の私の精神状態は、そういった色合いのものなんだろうと思った。

www.shinchosha.co.jp

 

www.iwanami.co.jp

 

www.iwanami.co.jp

【今回の付箋歌番号】
上巻:
19, 22, 37, 39, 55, 91, 120, 163, 172, 180, 194, 203, 208, 225, 231, 251, 264, 272, 282, 284, 306, 308, 351, 359, 362, 390, 400, 403, 412, 438, 475, 486, 488, 505, 545, 557, 640, 666, 711, 726, 789, 829
下巻:
837, 848, 908, 912, 925, 945, 966, 969, 977, 1045, 1049, 1072, 1202, 1207, 1215, 1218, 1273, 1295, 1309, 1329, 1358, 1386, 1399, 1407, 1434, 1455, 1481, 1484, 15111516, 1558, 1561, 1576, 1704, 1809

 

村山修一の『人物叢書 藤原定家』は、風雅な歌の世界が作られていた定家、後鳥羽院の時代の実際の風景、平安末期から鎌倉初期にかけて貴族が没落と武士が台頭する激動の時代の、天災・人災の止むことのない野蛮で悲惨な空気感を併せ伝えてくれる、定家の人物評伝。

大正生まれの著者の密度の濃い情報の詰まった硬めの文体が、現在流通している軽めの文章に慣れた目には少しハードだったが、きちんと咀嚼しようとして注意して読んだ分、定家が生きた時代状況のイメージと定家を取巻く人物たちのイメージがしっかり残ってくれたので、結果的によかった。

天福元年七十二歳で出家したときも、無常感の徹底からではなく、むしろ剃った頭を見られるのが嫌で、人に会うのをさけたほど、現世への執着は依然として強いものがあった。従って宿命観には支配されながらも、現世には強い希望を抱き、出世と歌道の完成によって光明ある未来の世界を志向していた。
(15「宗教観と自然観」p336 )

荘園経営や冠位昇格に関する不如意、健康不安から逃れられないヒステリー気味の藤原定家が、歌の家としての藤原家の地位を確かなものにしていこうとする行為と執念には尋常ならざるものがあり、より一層興味が引き立てられた。人好きするタイプの人物ではないが、気になって調べてみたくなるところがある。日記『明月記』が残っていて、それについては堀田善衞の著作など、いろいろ読みすすめていく選択肢が多くあることも好奇心をかき立てられる。定家自身が生涯をかけて行った膨大な典籍研究と書物書写には到底及ばないにしても、その爪の垢程度の趣味的研究でもう少し定家に親しみが湧くようになればいいかなと思っている。

www.chikumashobo.co.jp

 

www.chikumashobo.co.jp

www.yoshikawa-k.co.jp

【付箋箇所】
10, 26, 28, 42, 46,48, 52, 54, 57, 59, 63, 221, 274, 336, 368


目次:
1 御子左家の伝統とその周辺
2 青春時代
3 九条家出仕
4 官途への執着
5 新古今への道
6 思索と反省
7 後鳥羽院
8 権力者と追従者
9 熊野御幸
10 荘園所領
11 承久乱後の世相
12 子弟と所従たち
13 洛中洛外の住居
14 新勅撰前後
15 宗教観と自然観
16 病苦と晩年
藤原定家関係系図
略年譜


藤原定家
1162 - 1241
樋口芳麻呂
1921 - 2011
後藤重郎
1921 -
村山修一
1914 - 2010

 

藤原定家『拾遺愚草』未収録作を読む モノが整いきらない現実の粗雑さも詠いきる歌の世界

藤原定家の私歌集『拾遺愚草』正篇2791首に収まらなかった、定家の詩歌作品1840首を読み継ぐ。

uho360.hatenablog.com

全歌集下巻としてまとめられた本書、自選私家集『拾遺愚草』に収まらなかったところの歌の全体的傾向としての印象は、物質的な抵抗感、純化されていない素材感がどことなく残る荒さの魅力、詩的言語が喚起する情緒の中で解消しきれずに残る生の存在のザラツキ感が強く残る、後を引くというところ。それほど強くはないのだが、『拾遺愚草』所収の作品に比べれば、相対的に荒さの魅力、悔恨の情のざらついた魅力が際立っているように思える。

3720
 なき物と思すててし身のはてに世の憂きことぞ猶残りける
3901
 風はみなよもの木末をつたひ来てくらき声にも色ぞ見えける

なにもないと思っているなかで、どうしても捨てきれないかすかなものごとの存在感に感応してしまうどうしようもない感性と、その感性を迎えるに足る表現の能力。外と内との強度バランスが拮抗していれば、美的静寂の世界を感覚することができる。

 

藤原定家は日本の文芸界がもつことのできた、美的均衡の代表的実践例のひとつ。

本書と前作(『拾遺愚草』)併せよむことで、日本文芸における存在の大きさを確認することができる。自作だけでなく選者や批評家としての存在の大きさは、「百人一首」などの選歌工程などをたどることで、また別の経路で検討確認することが可能だ。

 

【付箋歌番号】
2845, 3229, 3266, 3296, 3601, 3648, 3665, 3677, 3720, 3727, 3821, 3829, 3901, 3952, 3968, 4018, 4042, 4095

 

www.chikumashobo.co.jp


藤原定家
1162 - 1241
久保田淳
1933 -

 

ガブリエル・タルド『摸倣の法則』(原書 1890, 1895 河出書房新社 2007, 2016 )

「摸倣」という武器一本で物理・生命現象から社会現象まで語りきる途方もない著作。データ検証からではなく推論ベースの展開で、ほんとかねと疑いたくなるようなところもままあるのだけど、ドゥルーズが称賛していて、それに乗る形で蓮實重彦も推薦しているということで、読むことと考えることのとびきりの達人たちの言葉を信用して、とりあえず読み切った。

uho360.hatenablog.com

 

社会学におけるアプローチの部分についてデュルケムに批判されたこともあり、学派としてはタルドの学問は残っていかなかったようだが、『社会分業論』などより読み物としては圧倒的に面白く、もっと読まれてもよい著作。ただこちらの作品は、全560ページ、税込み売価6380円で、しかも新刊書としては品切れ重版未定、さらには図書館にもほとんど置かれていないという始末。かわいそうなタルド、というか、かわいそうな日本読書界。メジャー出版社の新書か選書で研究者が当たり本を書いてくれないとなかなか過去の業績の掘り起こしは期待できない。しかし、ただ待っているのも問題なので、末端読者は今あるものを地道に拾っていくほかはない。すこし遠めの図書館から借りてきてありがたく読む。

奴隷は貯金をすることによってまず自分を解放し、次に自分のために奴隷を買うことになる。もし奴隷の夢が自由になることだけであれば、奴隷は自分の欲求を自分で満たし、手に入れた自由をひとりだけで享受するはずである。しかし、実際にはそのようなことはなく、奴隷はかつての主人の欲求を摸倣するのである。かつての主人と同じように、彼もまた欲求を満足させるために他人に奉仕されたいと思うようになる。こうした欲求が広まっていくにつれ、自由になった奴隷たちはみな、自分もまた奴隷をもつことを望みつつ、交互にあるいは相互に隷属しあうようになる。まさにここから分業と産業協同が生じたのである。
(第八章「考察と結論」 序節「要約―模倣とはてしない進歩」 隷属から分業へ、人間狩りから戦争へ p488 太字は実際は傍点)

さらに、この引用部分の原注では

民主主義において「わがまま」と「だらしなさ」はつねに増大していくのだが、その性質がもともと君主制あるいは神権制の絶対主義に由来している

と追記している。

タルド自身が本文の中で自分はペシミストだと述べているように、書かれていること自体はペシミスティックな内容であることが多いのだが、文体や語りの運びのせいなのか、本書全体にどことなくユーモラスな空気感が漂っている。蓮實重彦が指摘した著者の溢れる「好奇心」のなせる技なのだろう。読み切った勢いでドゥルーズの『差異と反復』もひさかたぶりに読み返してみようという気になったのは、想定外のオマケ。

 

www.kawade.co.jp


【付箋箇所】
35, 84, 95, 107, 111, 123, 126, 129, 133, 138, 149, 151, 184, 198, 202, 217, 256, 279, 318, 358, 364,369, 398, 420, 427, 430, 437, 438, 458, 461, 488, 500, 536, 540

 

目次:

第一章 普遍的反復
 第一節 社会的諸事実の規則性
 第二節 物理学、生物学、社会学の三命題
 第三節 普遍的反復の三形態の比較
 第四節 摸倣の屈折と干渉
 第五節 普遍的反復の三形態のあいだの相違

第二章 社会的類似と模倣
 第一節 遺伝によらない生物的類似と摸倣によらない社会的類似
 第二節 文明の単線的進化説に対する批判

第三章 社会とは何か?
 第一節 社会集団と社会的紐帯
 第二節 社会類型
 第三節 差異化の法則と異質性―社会とは模倣である
 第四節 催眠と社会

第四章 考古学と統計学―歴史とは何か?
 第一節 考古学における発明と摸倣
 第二節 考古学における歴史の意味
 第三節 考古学と統計学の比較
 第四節 社会学統計学
 第五節 グラフとその解釈について
 第六節 社会学統計学の未来
 第七節 摸倣の運命としての歴史

第五章 模倣の論理的法則
 序節  摸倣の一般法則に向けて
 第一節 何が発明され、摸倣されるのか―信念と要求
 第二節 論理的対決
 第三節 論理的結合
 第四節 その他の考察
 
第六章 超論理的影響
 序節  摸倣の非論理的原因
 第一節 内から外への摸倣
 第二節 上層から下層への摸倣

第七章 超論理的影響(続)
 序節  慣習と流行
 第一節 言語
 第二節 宗教
 第三節 統治
 第四節 法律
 第五節 慣例と欲求―政治経済学
 第六節 道徳と芸術

第八章 考察と結論
 序節  要約―模倣とはてしない進歩
 第一節 一方的な摸倣から相互的な摸倣への移行
 第二節 歴史における可逆性と不可逆性

解説
池田祥英  ガブリエル・タルドとその社会学
村澤真保呂 社会の見る夢、社会という夢

 

ガブリエル・タルド
1843 - 1904
池田祥英
1973 -
村澤真保呂
1968 -