読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

萩原朔太郎と蟾蜍

萩原朔太郎の詩を読み返したら、ヒキガエルの存在感がすごかったのでメモ。詩人本人はあまり好いていない様子がうかがえるのだけれど、ヒキガエル、朔太郎にとっては一詩神、ミューズみたいな位置づけにいる生物であるような気がした。


例:

1.
『蝶を夢む』より「蟾蜍」全篇 「日本詩人 第二卷弟一號」1922(大正11)年1月号

蟾蜍

雨景の中で
ぽうとふくらむ蟾蜍
へんに膨大なる夢の中で
お前の思想は白くけぶる。

雨景の中で
ぽうと呼吸いきをすひこむ靈魂
妙に幽明な宇宙の中で
一つの時間は消抹され
一つの空間は擴大する。

 

2.
『宿命』より「虚無の歌」部分

かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體を強ひるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍とが、地下で私を待つてるのだ。

ヒキガエル、丸くで弾力があって、朔太郎の好きなゴムまりのような感触で、愛らしくもあって、堕ちた先でひっそり待っていてくれるなら、それは慰めを与えてくれる相棒のような存在ではないかと思ったりして、ちょっと羨ましくさえ感じた。伊藤若冲水墨画の蛙よりは陰鬱かもしれないけれど、身震いして避けるような生物というよりも、むしろ詩友ではないか、そう今回は思った。

 

萩原朔太郎
1886 - 1942

 

福永光司『老子』(朝日選書 1997)

陰気、陽気、冲気。

本書は老荘思想道教研究の第一人者福永光司による訳解書。老子初読という人であれば、二昔前に出版され、ブームにもなった、加島祥造による英語訳からの重訳『タオ 老子』くらいの軽いものの方がよいかもしれないが、一見素っ気なく書かれているようでいて実はじんわりとした味わいのある本書も、研究者が書いた基本的な教科書という意味ではとても興味深い仕上がりになっている。老子全八十一章について、本文、読下し文、複数テキスト間での語句の異同、押韻解説、関連古典書との影響関係、各種注釈書の紹介、そして著者による現代語訳とたまに西欧古典作品との比較というスタイルで、隙なく老子読解が積み上げられている。単調といえば単調だが、リフレイン(リトルネロ)のように聞き入ることもできる。なにより口語自由詩訳ではないので、原文に用いられている語彙をそのまま読み、触れ、記憶することもできる。今回は、私にとっては三度目くらいの再読になるのだが、とりわけ「冲」の字が気になった。動植綵絵日本画伊藤若冲の雅号にも採られた「冲」の字は、あえて割り切らないままの本来的なものの野太さを伝えてくれているようで、とりわけ印象に残った。

第四十二章「道は一を生じ」から

[原文]
萬物負陰而抱陽。冲氣以爲和。

[読み下し文]
万物は陰を負うて陽を抱き、冲気、以て和することを為す。

[現代語訳]
万物はそれぞれに陰の気を背負い、陽の気を抱えこみ、冲和の気によって調和を保っているのである。

[解説から]
既に生成された万物の側からいえば、万物はそれぞれに冲和の気と冲和の気の成分としての陰気と陽気を己の内部に宿していることになり、冲和の気によって個物の有機的な全体としての調和が実現されるとともに、個物の道に対する調和がまたこれによって確保されるのである。ここで「万物は陰を負うて陽を抱き、冲気、以て和することを為す」というのが、この意味であり、老子において万物と道との同根性、万物の道への復帰が強調されるのも、このためである。

 

ちなみに加島祥造『タオ 老子』の対応箇所口語自由詩訳はこうなっている。

[加島祥造訳]
すべてのものは、だから、
陰を背に負い、
陽を胸に抱いているのであり、
そしてこの二つが
中心で融けあうところに
大きな調和とバランスがあるのだ。

「冲」の字がもつパワーを直接感じたいということであれば、古典的注釈書のほうが断然有用になってくる。

加えて白川静の『字統』で「冲(沖)」を見てみると

「湧き搖くなり」と水のわき出るさまをいう語とするが、むしろ水の深く静かなさまをいう語に用いる。道家の語に沖和・沖淡・沖虚・沖妙などがある。沖天のような語もあるが、むしろ動をうちに秘めた静かな状態をいう語であろう。

とある。

「動をうちに秘めた静かな状態」、融合前段階もしくは融合後段階で、まだ激烈に反応するにはいたらない精練の時である。表にあらわれずとも地層のベースが形づくられているときであると思う。

 

福永光司
1918 - 2001
加島祥造
1923 - 2015

 

【モンテーニュの『エセー』つまみぐい】05. 第二巻第一二章「レーモン・スボンの弁護」(宮下志朗訳 白水社『エセー 4』2010)

モンテーニュ『エセー』のなかでいちばん長い章。白水社版で本文約300ページ。

白水社サイトには「難解な」という形容がつけられているが、訳者や多くの評者が指摘しているように「奇妙な」とか「けったいな」とか「勝手な」という形容がふさわしい叙述のスタイルをとっている。

章題に「レーモン・スボンの弁護」とあり、モンテーニュ自身がレーモン・スボンのラテン語の著作『自然神学あるいは被造物の書。特に人間について』を翻訳出版しているのにもかかわらず、本章を読み通してみてもレーモン・スボンの著作がどういったものなのか一向にわからないという不思議な弁護になっている。レーモン・スボンの著作の内容にほとんど触れないし、まずもって引用がない。分量的にいちばん目に付く引用はルクレティウスの『事物の本性について』で、それも自分の語りの拍子をとるために置かれているような具合で、ルクレティウスエピクロスの思想をことさら称揚しているわけでもない。本章を書き綴っていた時期のモンテーニュ懐疑主義の強い影響下にあったという指摘はできるかもしれないが、『エセー』を書くにあたっては、モンテーニュはどこまでモンテーニュでしかない。学問というよりは、妥当な自尊心に裏打ちされた個人的エセー(試み)の書という読み心地の作品なので、あまり突き詰めることなく、読んでおけばいいのではないかと思う。
「レーモン・スボンの弁護」として書く目的や意味合いは分かりづらいが、書かれていること自体はけっして難解ではないと思う。

結局のところ、われわれという存在にも、事物の存在にも、恒常的な実存はいっさいないのである。われわれも、われわれの判断も、死すべきすべてのものも、たえざる流転を続けている。判断する主体も、判断されるものも、絶え間ない変転と動揺のうちにあるのだから、おたがいに、なにも確実なことを樹立できはしない。
われわれは、存在に対して、いかなる関与(コミユニカシヨン)ももちえない。人間性というものは、つねに誕生と死の中間にあって、自己については、曖昧で漠然としたイメージと、不確かで、弱い意見しか示さないのだから。もしも仮に、じっと一点に思索を集中して、その本質をつかまえようとしても、それは水をつかもうとするのに等しい。
(第二巻第一二章「レーモン・スボンの弁護」白水社『エセー 4』p290 )

 

www.hakusuisha.co.jp

【付箋箇所】
24, 39, 109, 116, 126, 157, 160, 195, 201, 256, 288, 290

 

ミシェル・ド・モンテーニュ

1553 - 1592

宮下志朗
1947 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

 

堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』(集英社 1998 集英社文庫 2005)

小説。

箴言録』で有名なラ・ロシュフーコーが残した『回想録』の体裁にならって(単行本p398参照)、ラ・ロシュフーコー公爵フランソワ六世が語り手となり、三人称形式と一人称形式を混ぜ合わせながら、ラ・ロシュフーコー家の歴史と十七世紀フランスを中心とした社会情勢を浮かび上がらせていくというスタイルの小説。カソリックプロテスタントの対立、教権と王建との対立、家族兄弟間にまで及んだ権力闘争が尽きずわきあがってくる激動期の騒擾と闘争と姦計をうかがい知ることもできる、語りに特徴のある歴史小説との印象を持った。

あくまでラ・ロシュフーコー公爵の回想という枠組みのなかでの展開であるため、語り手の主観を超えた歴史的な状況分析を濃密に埋め込むというところまでは手は染められていない。その点、抑制のとれたフィクションに仕上がっているのだが、堀田善衛自身がラ・ロシュフーコー公爵と彼が生きた宗教戦争盛んな時代をどう見ていたのかという生の声も聞いてみたい、という思いも起こった。

第二次世界大戦を経験した世代の堀田善衛は、戦前、戦中、戦後で劇的に変わった世相を見たことで、時代の変換期に対する関心が非常に高い作家であることがうかがえる。本書においても、戦闘方法や信仰観に関して、移行期における無効化されつつある側へのまなざしと詠嘆が数か所で感じられる。それも興味深く受け止めた箇所ではあるのだが、政治家や武人としての環境よりも、文人として感じていたであろうラ・ロシュフーコー公爵の時代感覚に寄り添って言葉を紡いでいるような部分が、より精彩を放っているように私は感じた。

たとえば次のような箇所。

しかし、陰謀やら強欲な王母などの、どことなく埃っぽい話ばかりをして来たので、ひとこと付け加えておくと、アンリ四世やルイ十三世の宮廷で一番読まれていたものは、ミシェル・ド・モンテーニュ殿の『エセー』は言うまでもないとして、新しく翻訳されたシェークスピアの劇であった。抗争と陥穽だらけの宮廷生活にあって、誰もが身につまされるところがあったせいであろう。後にはセルバンテスの『ドン・キホーテ』が加わった。
(単行本 第六章 p114)

さらには、

先師ミシェル・ド・モンテーニュ殿はストア派を批判するにしても、やんわりとすべてを包み込むようにして、いわば総括的であったが、われわれ、デカルトパスカルも含めてもいいかもしれないが、われわれにはもうそれだけの余裕がなかった。
大多数の人間が、あたかも仮面劇のようにして種々様々な道徳的、あるいは精神的な仮面をかぶっている。その仮面を剥ぐ(démasquer)ことに急き込んだのであった。
(単行本 第二十一章 p409)

 

思いがけないところで世界が多次元化して立体的かつ感覚的になってくれると、息づくことができる歓びがわきあがってくる。十七世紀が現在とひとつづきの時代のように感じられて、世界が広がった感覚がすこしした。

本書はモンテーニュを描いた大冊『ミシェル 城館の人』(全三巻、1991-1994)のまえに、馴らしという意味も込めて読んでおこうかなと思った作品で、読んだ結果としては、堀田善衛に対しての信頼感のアップにつながっている。一週間堀田善衛オンリーでも大丈夫だろう、そういう気持ちに落ち着いている。

【付箋箇所(単行本ベース)】
39, 73, 93, 98, 104, 114, 136, 142, 156, 212, 225, 258, 305, 338, 348, 365, 366, 384, 394, 401, 404, 406, 409, 411, 430, 435, 444

堀田善衛
1918 - 1998
ラ・ロシュフーコー公爵フランソワ六世
1613 - 1680

 

参考:

uho360.hatenablog.com

ロルフ・ヴィガースハウス『アドルノ入門』(原書 1987 平凡社ライブラリー 1998)

ユルゲン・ハバーマスのもとで哲学の学位取得した著者による辛口のアドルノ入門書。フランクフルト学派全体の研究として評価の高い大冊『フランクフルト学派 ―歴史、理論的発展、政治的意義』(1988)と同時期に書かれたアドルノの業績全般の紹介の書で、コンパクトでありながら非常に内容の濃いものにしあがっている。

美学的にはシェーンベルクベケットツェランを評価し、文化産業として拡大していった新メディアや大衆芸術を嫌悪し目を背ける傾向にあったアドルノ。その偏向性と普遍的同一性に囚われることを忌避するがために否定を重ねて細分化しながら論を進めるアドルノの著作のスタイルはなかなか読み手に寄り添おうとはしてくれないのだが、その点も踏まえながらヴィガースハウスはアドルノの思想の歩みの中軸をはっきりと描き出してくれる。それは、10年上の世代の輝かしいユダヤ系ドイツ人の著作家たち(ベンヤミンショーレムブロッホ、クラカウアー)からアドルノなりに引き継いだ「メシア的唯物論」というべきものであった。

世界が引き裂かれたこの状態を、彼はヘーゲルの観念論のように根本においては同一のものが二つに分裂した状態。ということはつまり、絶対者の使用可能な契機である、などと思ってはいなかった。また、世の哲学のように、悟性と科学と技術とによって、根底にある本来の生が歪曲されている状態だと思ってもいない。(中略)世界が引き裂かれているという事態は、アドルノの場合にはむしろ、それ自体としてメシア的な意義を有していたのである。彼の眼には、引き裂かれた世界の彼岸にはいかなる世界も存在しない。希望がもし存在するとするなら、それは引き裂かれた世界の瓦礫そのもののうちに保持されているにちがいないのだ。崩壊し、引き裂かれたこの世界のみが、救済の舞台たりうるのである。
(第2章 非同一的なものの哲学-否定弁証法 1 メシア的唯物論 P60-61 )

 

瓦礫の断片につかのま宿る輝きが至福の一瞬をもたらす。彼岸を否定し此岸を見つめるという姿勢は、どちらかといえば正しいような気にもさせるのだが、アドルノの要求は一般大衆層にはかなりハードルが高いので、理解も感性もなかなか追いつくことができない。

 

不協和音についてアドルノはこう語っている。不協和音は協和音に比べて、より洗練され、より進んでいるだけではない。文明の秩序原理によって完全に馴致されてはいないので、同時に調性より古いものであるかのように聞こえもする、と。
(第4章 モダニズム芸術の哲学-美的仮象による「幸福の約束 2 音楽における進歩と無形音楽という理念 P211 )

 

アルバン・ベルクに作曲を学んだ音楽家としての顔も持ちあわせるアドルノだからこそ聞こえる耳なのではないかと、疎外されたような気分にもなるのだが、小説や戯曲や詩であっても、読むことの蓄積の上に立たなければ見えてこないこと読みえないこともあるというのは体験的に知ってはいるので、音楽も聴き続けるなかで耳も変わってくるのであろう。その耳ができたときにもう一度アドルノのことばを思い出してみたいと今は思う。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b160452.html

【付箋箇所】
20, 26, 28, 40, 48, 61, 96, 97, 101, 104, 122, 124, 147, 148, 166, 168, 172, 188, 193, 201, 211, 215, 217

目次:
第1章 ファシズムの時代を生きた市民階級のインテリ・アウトサイダー
第2章 非同一的なものの哲学-否定弁証法
第3章 批判的社会理論-権威主義的主体の管理社会
第4章 モダニズム芸術の哲学-美的仮象による「幸福の約束」
第5章 多岐にわたる影響

テオドール・W.アドルノ
1903 - 1969
ロルフ・ヴィガースハウス
1944 -
原千史
1961 -
鹿島徹
1955 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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蓮實重彦『増補版 ゴダール マネ フーコー ―思考と感性をめぐる断片的な考察』(青土社 2019)

狂暴、危険。だが愛がある。学識もある。記号の集積にしかすぎないのに生々しい現実感をもって迫り、訴えかけてくる一冊。
質量ともに圧倒的で繊細華麗なフィルム体験とテクスト体験に裏打ちされた言説が、粗雑さや非歴史的な抽象性に気づかずにいるものたちを白日の下にさらし、無効化させていく。

 

批判の対象に上っているもの:
ミシェル・フーコー『マネの絵画』
宇野邦一『映画身体論』
アドルノ。特に大衆芸術(映画)に対する鈍感さ
フリードリッヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』
クロード・ランズマンショアー
アラン・ソーカル+ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』
マルクス・ガブリエル

 

思考と感性を刺激するもの:
マネの絵画
マラルメの詩
ジャン=リュック・ゴダール『(複数の)映画史』
エリック・ロメールステファヌ・マラルメ
ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレ『すべての革命はのるかそるかである』
ミシェル・フーコー『言葉と物』
ジル・ドゥルーズ『シネマ1』『シネマ2』
ジャック・デリダ『声と現象』
ハイデッガー
ポール・ド・マン

 

映像を中心に語りながら、芸術や技術における声の不在を浮き上がらせるという、繊細かつアクロバティックな主題提起も見事。

誰もが等しくマラルメの肖像写真を見ることができるのに、その声を聞くことはできないという状況は、今日にいたるもなお維持されている。そのことの歴史性に目を向けて見なければならない。
ここで見落としてならぬのは、この現実が、逆説的に声の優位を立証しているということだ。つまり、声は、イメージと異なり、まさに身体そのものであるがゆえに、かえって触れがたい領域に身を隠しつづけているのである。映画など誰にも撮れるが、あらゆる者が等しく声の再現にかかわってはならない。あからさまに明言されることのないその暗黙の禁止が、二〇世紀の歴史を複雑に染めあげているのである。
(Ⅷ  声と文字 「メディア論的陥穽」p150 )

 

人物名が三つ連なる蓮實重彦作品としては『フーコー ドゥルーズ デリダ』がある。いまは手許にないこの書物、中身もほとんど覚えていないのだが、本書が再読せよと呼びかけているような感じも受けている。また処女小説に『陥没地帯』という日本文学のどこに位置づけたらよいのかよくわからない奇妙な作品があるのだが、もしかしたら本書が読み解きの手引きになってくれるかもしれないという感触もあった。いずれもそのうち読み返してみたい。

www.seidosha.co.jp

目次:

第一部
Ⅰ 絶対の貨幣 
Ⅱ  『(複数の)映画史』におけるエドワール・マネの位置 
Ⅲ マネからアウシュヴィッツまで 
Ⅳ 鏡とキャメラ 
Ⅴ フィルムと書物 
Ⅵ マネとベラスケスまたは「画家とモデル」 
Ⅶ 「肖像画」の前で 
Ⅷ  声と文字 
Ⅸ 偶然の廃棄
Ⅹ  複製の、複製による、複製性の擁護 
Ⅺ 理不尽な楽天性と孤独 
Ⅻ 旅人の思索 

第二部
Ⅰ フィクションと「表象不可能なもの」 あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない 
Ⅱ  「ポスト」をめぐって 「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで 

あとがき 
増補版のためのごく短いあとがき

www.chikumashobo.co.jp

 

蓮實重彦
1936 -
ジャン=リュック・ゴダール
1930 -
ミシェル・フーコー
1926 - 1984
エドゥアール・マネ
1932 - 1883

 

参考:

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AIX(人工知能先端研究センター)監修『人工知能と社会 2025年の未来予想』(オーム社 2018)

いまから四年後(出版時からは七年後)、2025年が分水嶺になるよ、ということから人工知能と日本の社会を論じた一冊。

なぜ2025年かというと、日本の激烈な少子高齢化のなかで、きわめて厚い層を占める団塊の世代(1947年~1949年の3年間に生まれた世代)が、75歳以上の後期高齢者層に入ってくる区切りの年だからということらしい。

長生きは目出度いことであったはずだが、近年では医療の発達もあって、皆が長寿の社会、生産なき世代が拡大する世界になってしまい、単純に長寿を喜んでいい世界とは異なるフェーズに入っている。だからといって、人口動態に変化を齎すようなことはほぼ何も生み出せていないし、財政の先送りを抑止する規範的なコンセンサスも取れていない。そのようななか、危うい(詐術にも似た)舵取りをとるほかない情勢が長くつづいているような印象を受ける。

個人的には借金(国債)は嫌いだが、それなしでやっていけるような状態にないことも分るし、すべてが即自の現金決済で済む世界でないことも重々承知しているつもりだが、1970年代後半の小学生のとき以来、国家の負債を公共CMなどで告知され危機感を植え付けられた世代にとっては、次世代に単純に(あるいはより悪い状態で)引き継いでもらうのは、非常に心痛むところである。
直近の問題解決のために、単純に未来からの前借りで対応していいのか、次世代の人びとにも日々触れて生活を送るなかでは、どこか考えておくべきことであると思いながら過ごしている。できることは現世代で解決して次世代に託すほうがよい。

本書は、現時点で出来るかもしれないこと、コンピュータとネットワークを利用して人間活動をカバーし代替増強できるかもしれない領野を拡げていくことを目指して、最先端にいる研究者たちが吟味検証し方向性を指ししめそうと努力している有益な一冊。

バラ色の未来は幻想にすぎないとしても、次善のありうべき世界を垣間見させてくれようとしている真摯な書物であると思う。

急速に発展した人工知能が得意としている対象は、正解・不正解がある「知識」に該当するようなものである。正解・不正解があるものは、学習すれば獲得できるが、「感性」には正解・不正解がない。
(第5章 人工知能における感性 「感性とは? 人工知能で扱うことの難しさ」 p140 )

感性はもちろんだが、知識にとっても正解・不正解が決められないことの方が多いのが、現代社会の難しさや息苦しさなのではないかと思ったりもするが、進むにせよ抑制するにせよ検討しながら行動していくほかはない。

 

www.ohmsha.co.jp

【付箋箇所】
3, 25, 30, 40, 45, 55, 69, 74, 91, 107, 127, 130, 140, 145, 158, 161, 179, 185, 190, 199, 202, 209, 217, 218, 227

目次:
1章 2025年が やって来る!
2章 ロボットと人工知能
3章 IoTとは 時間・空間・人―物間をつなげることの効果とインパク
4章 自然言語処理人工知能
5章 人工知能における感性
6章 社会に浸透する汎用人工知能
あとがき

著者:
栗原聡
長井隆行
小泉憲裕
内海彰
坂本真樹
久野美和子


参考:

uho360.hatenablog.com