読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

千葉雅也の小説二冊『デッドライン』(新潮社 2019)『オーバーヒート』(新潮社 2021)

私小説。標準的で規範的なものの抑圧に対するマイノリティ(ホモセクシャル)側からの抵抗と困惑の表明。「仮固定」「偶然性」「意味がない無意味」「無関係性」「分身」「生成変化」など千葉雅也の哲学書で語られている概念が、学生時代(『デッドライン』)と教師生活(『オーバーヒート』)の「僕」の生活を通して、どのように生きられているのか浮き彫りにされている。とくに「分身」への拘りが、どのようなところにあるのかよく感じ取れた。哲学者としての思想的背景を知っている人間からすると大変興味を持って読みすすめることができるのだが、これを単純に小説として評価できるかどうかというと、かなり躊躇する。『デッドライン』は野間文芸新人賞、『オーバーヒート』収録の短編「マジックミラー」は川端康成文学賞も獲っているのだけれど、小説表現としての新鮮味や驚きがあるかというと、それこそ標準的な範囲におさまっているような気がする。場面を断片化しで切りかえる手法などで特徴を出そうとしている様子はあるけれど、それほどびっくりするようなものではない。個人的にはバタイユクロソウスキーなどをちょっと期待したりもしていたので、文体にアクがなく、フィクション性も少ない作風に、すこし物足りなさを感じながら、常温で向かい合った。特定の地域で教師生活を続けている状態で、こんなことまで書いて大丈夫かしらとハラハラすることはあっても、それは現実の世界に関しての興味関心であって、小説や小説家に対しての興味関心ではなかった。個人的には、千葉雅也の作品として面白いもので、つぎの小説が出たらまた読むだろうけれど、単純に小説として人にはお勧めしずらい作品であり小説家であった。

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千葉雅也
1978 -

『ポプキンズ詩集』(春秋社 安田章一郎+緒方登摩訳 2014)

一様ではない世界の紋様に敏感に反応し、見悶えた人としてのジェラード・マンリー・ポプキンズ。

まだら模様の幻視者という印象が強い。

中世スコラ神学者のドゥンス・スコトゥスイエズス会創立者イグナチオ・デ・ロヨラに傾倒し、英国国教会からローマ・カソリックに改宗し、イエズス会会員になり、教会勤めを続けながら継続的に詩作を行なっていたポプキンズ。初期詩篇からみられる幻影をともなった視覚的な表現力に特徴がある。世界の動的なありように左右されている精神と感覚の息遣いには、眼を引きつけるものがある。
※本書においてドゥンス・スコトゥス Duns Scotus を英語読みのままダンズ・スコウタスと訳しているのは愛嬌

「美しきまだら Pied Beauty」という斑(まだら)推しが明確な詩もあるなかで、この世界の陰翳、まだら模様に関する朗詠が高い質感で迫ってくる詩篇がいくつかある。お勧めはテリブル・ソネットと言われるうちの一篇、1885年、40歳の時の「シビルの葉を読んで」。

地はすでにその存在をこぼち その斑なる姿は 消え果て 散らばり
群がり まざり合い ひしめき合う 個は個に没し また砕け――
すべては忘却の彼方に埋もれ その形を失うのだ 心よ お前はいみじくも私にささやきかける
夕暮は我々にかぶさり 夜は我々を押しつけ 押しつぶし 遂には我我を滅ぼしてしまうのだと
くちばしの形をしたあやしき枝葉のみが まるで竜のように 滑らかな道具のような荒涼たる薄明かりに ダマスク紋様を織りなしている 黒黒とこの上もなく黒黒と
ソネット「シビルの葉を読んで」5-9行 )

整備なしのまだらの世界を凝視する詩人は、危ういものを避けながら平板な世界を当たり前と思考する私のような人間にとっては刺激的な人物にうつる。


【付箋箇所】
序文(ピーター・ミルワード):8, 14
本文:6, 10, 16, 21, 28, 29, 46, 54, 59, 71, 103, 108, 111, 125, 133, 134, 157, 160, 180, 183, 186, 187, 201, 202, 206, 209, 215, 220, 226, 268, 276

ジェラード・マンリー・ポプキンズ
1844 - 1889
安田章一郎
1914 - 2019
緒方登摩
1931 - 2014
ピーター・ミルワード
1925 - 2017
    

グレゴリー・サンブラーノ編『ゴンサロ・ロハス詩集 (アンソロジー)』(現代企画室 寺尾隆吉訳 2015)

あらゆる中毒、あらゆる傷に、触れては離れる。

残るものは痛み。

甘美なものもあれば、激烈なもの、消えないものもある。

シュルレアリスムに近いところで活動したチリの詩人ロハスの詩には、原子の世界にもどる手前の人間の、受苦と情熱が描き出されている。高速の言葉のつぶてで打ち出された荒々しいレリーフとその屑をもろともに感じさせる詩。

     盲いた仕事を
我らは眠れぬまま歩く、静かに注意深く、この
綱で誇りは輝かない、我らは歌声を上げない、我ら
は何の卜占官でもない、鳥の
内臓を取り出して未来を占ったりはしない、泣くなど
愚かなこと。
(第5部 謎:「数字の光」2)

文明開化以前より連綿と続く肉体と意識の底知れぬ深さを背負って現在を書き留めている詩人。

グレゴリー・サンブラーノ編『ゴンサロ・ロハス詩集 (アンソロジー)』(現代企画室 寺尾隆吉訳 2015)


目次:
第1部 言葉と詩
第2部 欲望と愛
第3部 生と死
第4部 放浪と風景
第5部 謎
第6部 人相書き

ゴンサロ・ロハス
1916 - 2011
グレゴリー・サンブラーノ
1963 -
寺尾隆吉
1971 -

    

入矢義高『良寛詩集』(現代語訳 禅の古典12 講談社 1982)

良寛自筆詩稿「草堂詩集」235首のうち重複を省いた184首と、岩波文庫版『良寛詩集』から47首を追加した全231首の漢詩に、読み下し文と現代語訳、訳注を施した充実の一冊。良寛も愛読した寒山詩についての仕事(岩波書店刊中國詩人選集5『寒山』 1958)と同様に、中国の先行する詩や文献への言及に見られる入矢義高の学識の深さと読解の精緻さは驚くべきもので、そこから詩に詠われたものを損なうことなく現代口語訳への大胆で味わい深い変換がなされていることも素晴らしい。良寛詩によりよく接することができるよう配慮がほどこされているのがうれしいアンソロジーである。特に、訳注をじっくり読むことで、良寛自身がいかに先行文献や経典に通じていたかが分かり、良寛自身の身に沁み込んだ教養の深さにも驚かされる。それほど多くの書物を持ち合わせてはいなかったであろう貧しい草庵での生活のなかで編まれた詩であることを思うと、良寛が読み込んできた書物がことごとく血肉化されている状態が思い浮かび、内的素材の充実が詩の味わいをより確かで濃いものにしていることを知る。

孰謂名実賓
斯言自古伝
唯知名非実
不省実無根
名実不相関
随縁須自怜

訳注を読むと『荘子』の逍遥遊篇の語句から説きおこしはじめ、大乗仏教の空性・無自性の説につなぎ、達磨大師『二入四行論』に説かれる「随縁行」で締めているという。最終2行の読み下しと現代語訳はつぎのとおり。

名と実は相関せず
縁に随って
須らく自ら怜(いとお)しむべし

 

名と実とは関わりのないものなのだ
自らの置かれた条件のままに
自分を大切にすることこそが肝要だ

訳者入矢義高は、良寛が好んで用いる「随縁(縁に随う)」の語句を、同様に好んで用いられている「任運(運に任せる)」と併せて、単純な現状肯定でも諦念でもないとして、巻頭の全体案内で以下のように解説している。

(引用者追記:現実の耐え難い寒暑を)回避するのでもなく、また超克しようとするのでもなく、逆に徹底してそれを我が身に背負い込むことである。甘受の諦念ではなくて、捨身の無作行(むさぎょう)である。

「捨身の無作行」。まるごと受け入れたうえで、味わい、自身の実践に結びつけるという、大乗仏教本来の志向性に、良寛自身の本来的性向が強く反応し、愚直なまでの禅生活が実行される。教えを正しく実践する強さと、教えに従っていても現実の厳しさに萎れ恥じ入る弱さの両極が、虚飾なく詠いあげられるところに良寛漢詩の魅力がある。自分が泣いている姿を詠ったときには、修辞ではなく、本当に泣いている姿が浮かんでくるのだから、詩としてはこれ以上望むことはない高みに達している。

秋日苦無悰
倚杖独徨翔
山空茱臾赤
霜落蒹葭黄
過橋非他橋
升堂亦此堂
如何西風晩
寂寞涙沾裳

入矢義高訳:
秋の一日、楽しみのないのに堪えかねて
杖をつきつつ独りでさまよい歩いた
ひっそりした山中にグミの実は赤く
霜を帯びてヨシとカヤは黄色に枯れている
橋を渡ったが、いつもと違った橋なのでもなく
座敷に上がったが、これもいつもの座敷でしかない
なぜとも知らず、秋風渡る夕暮れに
心寂(わ)びて涙は裳(もすそ)を濡らす

寺に属することもなく薄い僧衣一枚で心身ともに寒々しいわび住まいをつづけるなかでの秋の夕暮れ。打ち捨てられた身と想いだけが、生のまま、無防備に描き出されている。ただ寄り添うしかないような痛ましさに打たれるばかり。


入矢義高
1910 - 1998
大愚良寛
1758 - 1831

 

アダム・ミツキェーヴィチ『祖霊祭 ヴィリニュス篇』(未知谷 ポーランド文学古典叢書8 関口時正訳 2018) 過酷さと享楽の臨界点への道行き

19世紀前半のポーランドを代表するロマン派詩人アダム・ミツキェーヴィチの最高傑作とも言われる未完の詩劇『祖霊祭』の関口時正による編集翻訳作品。最後に書かれたという第三部は、政治色が濃く、また分量も突出して大きく、他のテクストからの独立性が高いと判断されたために除外されているが、本体部分全214ページを読み通した印象では、かえって緊密な構成におさまっているようで、編集方針としては正解なのだと思う。第一部、亡者、第二部までの比較的大きなシーンを断片的に重ねた前半103ページは、説明抜きの場面切り替えの意外性あるいは不透明性などは現代作品の編集法にも似ていて新鮮さを感じさせ、物語をまとめるような第四部は、狂気と正気を行き来する圧倒的なセリフ展開で一読内面的に騒然となる。救いのないことの救いを甘受してもいるかのような悲劇的作品は、ずっしりと腹に残る。
東方正教会とそれ以前の民族的宗教慣習である祖霊祭の相剋、情念と知性、世俗の愛と知と書物の中での愛と知の齟齬、それぞれに経過する時間の違いとそれによって倍加する恩愛のこじれ。不運に焚きつけられる痛ましいまでの妄執。物語の背景となる19世紀前半東欧の時代状況にあって、自身の責任においては決定的にまちがいを犯してはいないであろう人物の転落の軌跡。過去にいっとき成立した幸福への執着が強いがゆえに、その過去に縛られ、移り行く現在の状況を受けいれられなくなった者の、ひとつの生の到達点が見える。最低だと思いながらも至福が排除されていない、複合し圧縮された時間に向き合わされる作品なのではないかと思う。

その時が来るまでは、断罪された魂とともにさまよいつつ、
自分は光を好まぬにも拘らず、光めがけて飛び込まねばならぬ。
闇の霊たちにとっては、それこそが最も過酷な拷問なのだ!
見よ、色鮮やかな衣装で着飾ったこの蝶は、
・・・
(「第四部」p218)

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【付箋箇所】
12, 44, 55, 131, 157, 188, 196, 205, 218

目次:
はじめに(訳者から)
第一部(未刊の草稿)
亡者
第二部
第四部
訳者後記

アダム・ミツキェーヴィチ
1798 - 1855
関口時正
1951 -

 

ジャック=アラン・ミレール編 ジャック・ラカン『不安』(セミネール第十 1962-1963 原著 2004, 岩波書店 2017 上下全二巻)

欲動のもとめる対象「対象a」あるいは「小文字の他者」をめぐる本格的考察が展開されることになる起点となったラカンセミネール。聴講対象者はラカン派の分析家で、セミナールも10年目となると、前提されている知識が多くてなかなか全体像がつかみにくい。さらに、メビウスの輪からはじまり、クロス・キャップやクラインの壺など位相幾何学トポロジー)の学知からの分析があったり、フロイトを中心として多くの精神分析学の文献げの言及があったり、多くの哲学作品や文学作品への参照があったり、絵画作品や仏像の眼差しへの言及があったりで、ラカンの語りの幅広さと奥行きとを、ひととおり体験するので精いっぱいというのが正直なところだろうか。一度目であれば、馴染んでいくことがまずは大切と考えて、また次のラカンセミネールにすすみ、またいつか戻るということをくりかえすことが必用なのだろう。

理解可能で気になったところをピックアップすると、意外と当たり前のようなことであったりするので、その分りやすいところから、ラカンの分かりずらいところに切り込んでいけるようになったらいい。

規則どおりにゲームがなされないということ、まさにこれが怒りを呼び起こすのです。(1「シニフィアンの網の中の不安」上巻 p20 )

 

すべての正常規範(ノルム)が突然なくなってしまったら、(中略)まさにその時、不安が始まります。(3「宇宙から「不気味」なものへ」上巻 p62 )

 

原則として、信号は居あわせているもの者としての私に向けられてはいません。それは、いわば来たるべき者としての私、さらには、失われた者としての私に向けられています。(11「欲望に句読点を打つこと」上巻 p234 )

 

欲望の欲望であるものとしての欲望、つまり誘惑は、そのもっとも原始的な機能における不安へと我々を導きます。(24「aからいくつかの〈父の名〉へ」下巻 p272 )

 

 

自分自身や身近にいる人を分析することはできなくても、距離を置いて観察検討するきっかけになる言葉が詰まっているのがラカンセミネールの魅力であろう。

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【付箋箇所】
上巻:
6, 20, 55, 62, 81, 97, 117, 119, 125, 132, 178, 180, 181, 182, 192, 194, 197, 203, 210, 233, 234
下巻:
8, 25, 30, 54, 57, 58, 94, 99, 103, 104, 109, 118, 131, 132, 166, 167, 179, 188, 189, 204, 208, 216, 220, 235, 244, 250, 269, 272, 274

目次:

【上巻】
不安の構造への導入
Ⅰ シニフィアンの網の中の不安
Ⅱ 不安、欲望の記号
Ⅲ 宇宙から「不気味なもの」へ
Ⅳ 去勢不安の向こう側
Ⅴ 騙すもの
Ⅵ 騙さないもの

対象の境位、再考
Ⅶ それをもたないではない
Ⅷ 欲望の原因
Ⅸ 行為への移行と「アクティング・アウト」――身を投げること、そして舞台に登ること
Ⅹ 還元不能の欠如からシニフィアン
XI 欲望に句読点を打つこと

【下巻】
不安 享楽と欲望の間
XII  不安、現実的なものの信号 
XIII 愛に関するアフォリズム 
XIV  女、より真実の、そしてより現実的なもの
XV  雄の要件

対象aの五つの形
XVI  仏陀の瞼
XVII 口と眼
XVIII ヤーヴェの声
XIX  消えゆくファルス――去勢不安からオルガスムスへ
XX  耳から入るもの
XXI ピアジェの水栓
XXII 肛門的なものから理想へ
XXIII 点に還元できない円について
XXIV aからいくつかの〈父の名〉へ 

 

ジャック・ラカン
1901 - 1981

 

千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書 2022) シュワシュワのデリダを引き連れてくる軽業師、千葉雅也。軽さの美学に貫かれた驚くべき一冊。先ずは、つまみ食いすべし

出版間もないのに非常に評判の高い一冊。買おうかどうか迷ったら、ゴシック体で強調しているところをたどって書店店頭で判断すればよいという徹底して初心者に優しいつくりにもなっている。
浅田彰の『構造と力』が天使的軽さを目指しながらまだ大天使の大きな存在の影で下々を圧倒する体裁になっていたのに比べ、論ずる対象がだいぶ重なっているにもかかわらず、ライフハックの手段として現代思想を利用してみればよいのではないでしょうかと、個人の実生活の感覚レベルにまで落とし込む徹底した世俗性が、信じられないくらいの軽やかな味わいを読者に齎してくれる。
千葉雅也が創るのは、自身独自のリキュールも巧みに合わせた現代思想の口あたり良いカクテル。千葉雅也にしか創ることのできない創造的カクテル。シュワシュワのデリダなんてものは、他ではお目にかかれない逸品だ。

一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンである
(第一章「デリダ―概念の脱構築」p50 ゴシック体部分)

「炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界」。このあたりが千葉雅也が芸術的と感じ、自身の概念構築にも大きな影響を与えている固有の美的世界観なのではないかと思う。2018年刊行作『意味がない無意味』ではより強く芸術系の興味対象の傾向が出ているが、本書『現代思想入門』は、千葉雅也が主戦場とする20世紀後半以降のフランスの思想圏に対象を限定した華麗なマッピングになっているのではないかと思う。
実際に読んでいて浮かんでくる名前は、語りの対象としては取り上げられないロラン・バルトであったり、日本でいえば九鬼周造であったりするのだが、もっとも近接するのは(最後のフーコーの遺作に関しての言及は別として)蓮實重彦の処女作『批評あるいは仮死の祭典』(1987年)なのではないかと思ったりもする(現在手許にないのが残念)。批評家と哲学者の違いということもあり、千葉雅也は自身の概念を積極的に論考のなかに埋め込んでいるのも、逆に分かりやすい部分があって親しみが湧くが、親しみやすい千葉雅也から自称狂人たる蓮實重彦へと遡行して、蓮實重彦を読み直すというのも思想的にはひとつの日本的な振舞い方であると思う。一世代前の東浩紀への参照から、さらに先行する蓮實重彦へ。三人とも小説も書いているが、千葉雅也だけはまだ未読であったのは、失望するんじゃないかというおそれもあってのことだったが、今回の書きっぷりを見て小説も読んでみようと考えさせられた。そういう意味も含めて、現実世界でなんらかのチャレンジを促す実用的な一冊に仕上がっていると思う。うたい文句は「人生が変わる哲学」。少なくとも読んだ後は、千葉雅也がいる世界での人生になる。

 

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目次:
はじめに 今なぜ現代思想
第一章 デリダーー概念の脱構築
第二章 ドゥルーズーー存在の脱構築
第三章 フーコーーー社会の脱構築
ここまでのまとめ
第四章 現代思想の源流ーーニーチェフロイトマルクス
第五章 精神分析現代思想ーーラカンルジャンドル
第六章 現代思想のつくり方
第七章 ポスト・ポスト構造主義
付録 現代思想の読み方
おわりに 秩序と逸脱

千葉雅也
1978 -
ジャック・デリダ
1930 - 2004