読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック・デリダ『シニェポンジュ』(フランシス・ポンジュに捧げられた1975年のスリジー・シンポジウムの講演、原著 1984, 梶田裕訳 法政大学出版局 2008)

ジャック・デリダ脱構築的テクストを読んで、読みの対象となっている詩人の作品を読みはじめるということは確かにある。私の場合、エドモン・ジャベスがそのケースに当てはまる。詩作品が翻訳されていてもすぐに手に入らない状況になってしまい、批評家や研究者による紹介も自分から探さなければなかなか目につかない詩人にとっては、いまだに有効性をもちつづけているジャック・デリダのような人物に取り上げられ、書物として、間接的にも読まれる機会があることは好ましいことである。

好ましいことではあるのだが、本書はジャック・デリダの数ある論考のなかでも難解なというか変態性が凝縮された言論の部類に属すると思うし、論述の対象となっている詩人フランシス・ポンジュに対し、て一般的な読者が最初に好感を持つような、ポンジュならではの繊細で緻密な対象に対する愛が伝わってくる詩の言葉の特性を、言祝ぎ強化しようとしているわけではなさそうなので、まずはあくまでデリダ化されたフランシス・ポンジュと思って、デリダの言葉とデリダに引用されたポンジュの言葉を読んだ方がよい。

確かに、かなりの分量のポンジュの詩作品からの引用があり、デリダの論考を支えるよう選別され紹介された詩句は、本論を離れてもポンジュの特筆すべき特徴をあらわしていることは間違いない。間違いはないのだが、デリダ化されたポンジュという印象がどうしても強く残る。よくもポンジュをデリダ化したものだという、感心さえ起こってくる。のちに、文書化されて文字言語で改めて読まれることを前提しているとはいえ、ポンジュ本人を含むポンジュ読者に対して、口頭で発表していることにも恐れ入る。シンポジウム参加者の知的レベルが高いのは当たり前のこととはいえ、デリダの戦略に満ちた、フランス語での言葉遊びや放言にも近い提言をどれほどその場で理解できた人がいるだろうかと勝手に想像を膨らませてしまう。スリジー・シンポジウムは10日間にわたって行われた大規模なもので、デリアほどではないだろうけれども各講演者はそれぞれポンジュの新しくて詳細な読解を提出していたはずである。そ中で、デリダ講演がどのように受容されていたかということを、ちょっと知りたく思ったりしたのだが、翻訳書ではそこまでの情報は得られなかった。

事物の本質を取りだそうとすることに詩人の勤めがあるというポンジュの詩的主張をクローズアップし、それに対して、デリダはポンジュはスポンジのようであるいうよりもスポンジそのものであり、スポンジで洗浄しながら洗浄したものを吸い取ることは、ポンジュと署名しながら吸い取ることであるとして、原テクスト名Signéponge(「ポンジュと署名する」)をフランス語が喚起する含意からデリダの名とともに提示している。
事物に対してポンジュPongeの名を署名する(Signer Ponge)という表現の中にスポンジ(éponge)が含まれているという言葉あそびが、ポンジュ詩の本質をなしていると、デリダが署名を追記することで起こる動揺。それが本書の、核にあるのもであるだろう。海綿動物由来の、より自然なアプローチで洗浄吸収をおこなっているポンジュの言語作品に、デリダの剛くて硬くて非常に細かい理性由来の金タワシのようなのものが入り込、み融合して、ハイブリッドなスポンジを生んでいるような印象を生んでいる。
このハイブリッド感は、初読ではなかなか読み取りやすいものではなく、再読以後、ある程度本文から距離を置いて、ポンジュからの引用文を中心にざっくり読むようにして、はじめて受け入れられる体のものである。おそらく本文を忠実に読んでいこうと身構えると、はじめは跳ね返される可能性が高い。少なくとも最初の講演で午前午後と分けられて発表されたのに従って、分割して読んだ方がよいと思う。ちなみに私は、さらに倍の4分割にして、はじめて読み通せてほっとしたのでした。

この講演のスタイルの特殊性は訳者自身も十分に感じていることで、それは本書の三分の一を占める訳者解説とのスタイルの差を比較してみれば歴然としている。脱構築というのは、たとえデリダを専門に研究しているものであってもそうやすやすと実践できることではないということが、デリダの本文と訳者の解説の文章のスタイルを見ることで明らかになる。フランス語と日本語との違いということではなく、対象としてアプローチする作品に対しての態度に根本的違いがあるのだろう。そしてその態度はそうそう簡単に身に着くものではない。
訳者梶田裕の解説は、デリダ批判とも取れるもので、デリダに影響を受けながら批判的に継承している人物、たとえば、アラン・バディウジョルジョ・アガンベンカトリーヌ・マラブーを引きながら、言説の政治性における限界を描き出そうとしていて、それはほぼ訳者の意図通りに成功していると思えるものである。しかしながら、訳者自身もデリダ脱構築のパフォーマンスのレベルには到達できていないことを素直に認めている。脱構築というものは、誰にでも可能な便利なツールではないのだ。

デリダがポンジュに行ったような連署、ポンジュの署名を奪うそのエクリチュールの驚異的なパフォーマンスは、私には到底実践不可能であると思われた。だが、脱構築はそのようなエクリチュールの発明を不可避的に要求する。だから、脱構築的の図式化可能な論理だけを、様々な事例に適用する脱構築主義は、デリダから遠く離れていることになるだろう。

詩人もまた、先行する詩人たちのなかで新たなエクリチュールの実践をなすことで詩人となっている。哲学者もまた同じ。一般読者層よりもそのことを深く知り、実践の場にも立っていると思われる訳者の梶田裕。いま現在の活動も知りたいところである。

 

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【付箋箇所】
18, 25, 27, 46, 53, 77, 87, 101, 139, 188, 200, 201, 211, 227, 232, 237, 239, 262

ジャック・デリダ
1930 - 2004
フランシス・ポンジュ
1899 - 1988
梶田裕
1978 -