読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出書房新社 2017, 河出文庫 2019 )

一遍かっこいい!と思ったアナキズム研究者栗原康が書いた憑依型評伝。栗原康の文体は研究者が対象を扱うというよりも自分の経験と体感を溢れさせるようにしたもので、研究者というよりも作家と思って接した方が良い。
すべてを棄てて念仏を広めるために日本各地を旅し、信仰者とともに遊行するようになると踊念仏に発展、後に時宗となる特異な信仰形態を確立した一遍。その生涯を絵巻『一遍聖絵』と語録『一遍上人語録』をベースに、最新の研究成果も取り入れながら辿っていくのだが、栗原康は一遍に同行した信者である時衆の一人であるかのように、一遍の融通念仏踊念仏を描き出す。時代を超えての一緒の叫びのようだ。

ナムナムナムナム。それにあわせて、ピョンピョンピョンピョンとびはねて、ピョンピョンピョンピョン、またはねる。連日連夜、狂ったようにおどりつづけていると、うわさをききつけたのか、外からも続々と人があつまってきて、気づけば数百人規模になっていた。フオオオオオオッ、エクスタシー、エクスタシー!!
(第三章 「壊してさわいで、燃やしてあばれろ」より)

栗原自身は浄土研究会のようなものも開いているというこで仏教の研究もしっかり行っているようではあるのだが、一遍を描くときは教理よりも世俗社会の体制に対する反抗者抵抗者としての姿により多く関心を持っていて、絶対他力の境地に導く絶え間ない念仏と身体の運動から生み出される法悦と、世俗を超えた極楽浄土からの現世娑婆世界への対抗運動をクローズアップするようにしている。踊念仏と同じようにリズムをもった文体と、「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えるだけの易行にも似たひらがなだらけの軽さの極みのような文体とが、有用性や身分階級などの世間一般どこにでも顔を出してくる軛を切断して回る。一遍の魂を現代に召喚し、現代日本潜在的アナキストたちに接続させようとしているかのような、挑発的な評伝になっている。

 

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【付箋箇所(文庫版)】
12, 66, 76, 87, 89, 92, 95, 140, 157, 166, 173, 179, 183, 186, 217, 230, 240, 275, 276, 277, 283


栗原康
1979 - 
一遍智真
1239 - 1289

参考:

uho360.hatenablog.com