講義
芸術はマッサージみたいなものか。凝った体がなければ別に不要なものだろう。あと、揉み返しにはかなり注意が必要。芸術の適量はたぶん自分しかわからない。たぶん、精神科医でもうまい処方は出て来ない。 《渾沌》の概念 芸術とは何か。それは《咲き匂う身…
ハイデッガーは有限性や事後性といった人間の制限に関する感度がかなり高い。そこから歴運とか宿命とか運命にもとづいた決断とかの方向に引っ張っていかれることには第二次世界大戦後の世界を生きる人間としてはかなり抵抗があるけれど、人間の規定にあるも…
一読、またドイツ民族の優位性についての言説かと感じたが、ゆっくり読み返してみれば、今回の読みの対象の講義部分は特定民族の優越という主張の色は薄い。「永遠性」を生の眼目に置く西欧的緊張の世界の話をしているということの確認らしい。今や世界中ど…
ニーチェの生物学主義的思索は、生物学という科学の成果としてみるのではなく、生物を科学する根拠をも問う形而上学的思索として捉えよと、ハイデッガーは指摘している。科学に対する形而上学の優位を強調しながらの1939年のニーチェ講義。見極め切り分…
これより『ニーチェ Ⅱ ヨーロッパのニヒリズム』(原書 1939, 1940, 1961 平凡社ライブラリー 1997) 一 認識としての力への意志 形而上学の完成の思索者としてのニーチェ ニーチェのいわゆる《主著》 新たな価値定立の原理としての力への意志 《世界》と言…
思惟は基本的には無言語で行われるのではなく、母国語で行われる。私の場合は日本語で、気がついたときからずっと日本語で生きている。 生活の資を得るために各種プログラミング言語とSQL(構造化問い合わせ言語)のお世話にはなっていて、そのコンピュータ…
永遠回帰は、次の瞬間をおのれのものとすることへうながす思想。 存在者の《人間化》の懸念 回帰説のためのニーチェの証明 証明手続きにおけるいわゆる自然科学的方法 哲学と科学 回帰説の《証明》の性格 信仰としての回帰思想 回帰思想と自由 この思想の趣…
指示対象(表象の対象)として創造主や神といったものを想定してしまうと、途端に胡散臭いものになってくるが、論ずるためには言語で表現していくほかはない。 【存在】 神の創造、三位一体の子、被造物について トマスは「禅の本質側面は自己をおしひろげ、…
瞬間の永遠回帰と「存在者全体の脱人間化と脱神格化」のカップリング。 回帰説の第三の伝達 手許に保留された覚え書における回帰思想 一八八一年八月の四つの手記 思想の総括的叙述 生としての、力としての、存在者の全体、渾沌としての世界 《渾沌》という…
瞬間の出来事を一般に向け表明し説明することは難しい。瞬間という観測対象になりがたい瞬間を評価対象に掲げることの難しさが顔をのぞかせている。 《幻影と謎について》 ツァラトゥストゥラの動物たち 《恢復しつつある者》 瞬間に立つ人は二重の方向を向…
まず「最後の人間」を目指す。「超人」はそのあと。 回帰説の第二の伝達 最後の人間とは《ほどほどの幸福》をめざす人間であり、きわめて抜け目なくすべてを心得、すべてを営んでいるが、そうしながらすべてを無難化し、中位のもの、全面的平凡の中へ持ちこ…
これより第二期講義、「二 同じものの永遠なる回帰」。 ハイデッガーにとって「存在」はあるということの根源、「無」は「存在」に対立しているもの。「存在」という概念にゆらぎが発生すれば、対立概念の「無」もゆらぐ。光と闇が截然とわかれることがない…
1935年夏フライブルク大学での講義テキストをもとに内容は変えずに文言の体裁に手を入れて1953年に出版。削ることも注記を加えることもできたであろうに、戦時期のドイツの状況とナチスについての発言部分はそのままの状態で残している。アドルノな…
ドイツ民族好きだからか、スピノザの心身並行論みたいな感じがする部分をハイデッガーはライプニッツからプラトニズムを排去しただけのものといって解説する。それとも単なる私の読みのまちがいか・・・ プラトンのパイドロス篇-幸福をもたらす離間における…
ハイデッガー『ニーチェ』の原書は1961年の刊行。実際に講義が行われたのは1936~1937, 1939, 1940の期間。ナチスとは距離をとったと言われている時期ではあるが、どうにもきな臭い。 プラトニズムと実証主義における真理 ニーチェがニヒリズムの根本経験か…
その辺にあるであろう事物との共生。その辺に生きている私という存在の確認。 プラトニズムと実証主義における真理 ニーチェがニヒリズムの根本経験からプラトニズムの逆転を試みたこと 芸術と真理の関係に向けられたプラトンの省察の範囲と連関 芸術は感性…
ヘーゲルが『精神現象学』を一八〇七年にはじめて公表した際の表題「意識の経験の学」の「経験」にこだわって講義論述された論文。学問の世界で一般的に流通している「現象学」ではなくて「経験の学」こそ大事だという主張がある。 自己の知が対象に即応しな…
「美」とはなにか、ということは別に置くとして、現代アートはもはや「美」を志向していない、という現実にとどめをさしてくれた貴重な一冊。確かにデュシャンの作品集は所有していてもあまりワクワクしない、レディメイドの複製品という印象が強い。デュシ…
美についてのカントの教え ショーペンハウアーとニーチェによるこの教えの誤解 形式創造力としての陶酔 偉大な様式 芸術についての五つの命題の根拠づけ 《真理》とは、真実に存在するもの、もっと精確にいえば、真実に存在するとみなされているもの(それ自…
身体がなければ、感情もない。毀れやすい身体とはよろしくつきあっていきたい。 美学の歴史にみられる六つの根本的事実 美的状態としての陶酔 われわれは身体を《持っている》のではなく、身体的に《存在しているのである》。この存在の本質には、自己感受と…
価値について語ることが広く行われはじめたのは十九世紀になってから、とくにニーチェ以降の現象であるとハイデッガーは指摘する。なるほど、神が生きていた時代には神と神の体系を語っていればよかった。それが失効したときに、新たな価値をみんなが探しは…
超感性的世界、イデアの世界は仮象であるというニーチェのニヒリズム解釈を朝湯で迎え撃つ。 風呂入って本を読んでいる私の姿は見せられたものではないけれど、真理より芸術がいいというニーチェの議論は万人に見てもらいたいものである。 一 芸術としての力…
本日テレビは火山祭。地球の活動に人間の活動を比較してみると、人間というものはいじらしい。 ヘルダーリンの『エンペドクレス』は最後エトナの火山に身を投じたが、なにもいわずに受け入れたエトナの火山こそ、存在するものとしての偉大さを持っている。そ…
文庫版か新書版じゃないときついけど、読めそうもないと思っている積読本は風呂場に持ち込むと意外に読みすすめることができる。最大の理由は、風呂場にはその本しかないから。 ということで、今回ハイデッガーの『ニーチェ』全二冊を風呂場で読みすすめるこ…
木田元いわく「私は、哲学書を読むのに何から読めばよいかと人に尋ねられると、まずこの細田訳の『ニーチェ』を勧めることにしている」。目利きの誘いに乗ってみるというのもおもしろそうです。 マルティン・ハイデッガー『ニーチェ Ⅰ 美と永劫回帰』(原書 …
モイラは「運命」もしくは「割り当て」で「送り定めながら配分する」はたらきとして提示されている。ギリシア神話では寿命をあやつり決める女神の地位で、時に無常の果実を用いて相手から力を奪うという技も持っているらしい。 運命の最たるものは死で、ハイ…
道徳をめぐるカントの思想は「物自体」の概念規定を含めて「純粋理性」を語る時よりも変わっている(トリッキー)と書き留めておきたい。「自由」の概念も常識的自由とはひどく異なっている。そして竹田青嗣による明晰な解読は、カントの特異性をますます際…
完全かどうかは別にして、とてもいい解読書。「悟性」と「理性」の理解度が高まったというか、印象深いものになった。 【悟性】 悟性は、本来感性と結びついて対象認識を行なう役割を持つが、しばしばこの限界を超えて、感性的直観をもたない領域についても…
きれいに整理されていてわかりやすいというか付き合いやすい現象学の解説書。フッサール自身の文章の繰り言じみたしつこさ(=『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでの私の印象)を逆照射もしてくれて、フッサールの現象学へのこだわり方の特異…